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日蓮大聖人・池田大作

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兵庫県最高会議 広布に不滅の「3・16」

1983.3.15 「広布と人生を語る」第4巻

前後
1  三月十六日がくると、昭和三十三年三月十六日、総本山における、男女青年部六千人による本門大講堂前での、真剣にして荘厳なるあの儀式を思いだすのである。
 あのときの光景は終生わすれることはできない。
 早くも、この三月十六日の儀式より二十五周年を数えることになった。
 この儀式は、ご存じのとおり戸田第二代会長が私に「一つの広宣流布の模擬的儀式にしておきたい」といわれて行われたものであった。ゆえに、私どもにとってこの日は、まことに深い意義をとどめた一つの原点となっているのである。
2  この時代は、第六十四世日昇上人より第六十五世日淳上人の代に入られていた。
 七百年の伝統をつたえる日蓮正宗総本山も、旭日の昇るがごとき観があった。
 戸田先生は、総本山への赤誠として、本門の大講堂を建立御寄進申し上げた。その落慶の儀式は、三月一日に盛大かつ厳粛に執り行われ、ひきつづいて信徒であり学会員である二十万人の総登山が、一か月にわたって行われていたのである。
 その喜々として賑わう総本山大石寺に、時の総理が参詣するという連絡があった。その日が昭和三十三年三月十六日午前であったわけである。そこで、戸田先生は、当時の日淳上人にも御連絡申し上げて、時の総理を迎え、将来の一国広宣流布の模擬的儀式としたいと考えられたわけである。
 一国の首相の参詣に「梵天・帝釈の来下」の謂も含められたのかもしれない。
3  古来、旧仏教界では、時の国王の参詣を、ひとつの重要な儀式とみなす風習があった。しかし時代は移り変わり、主権は在民である。したがって、妙法を受持した多くの人が広がり広がっていくことが広宣流布の実相であって、時の最高権力者を迎えることじたいが広宣流布ではないことはとうぜんである。
 しかし、当時の私どもは、教義の点でも、行動の面でも、また仏法の意義の理解においても未成熟であったがゆえに、「広宣流布」の意義のとらえ方も、いまだ不明確であったことも事実である。戸田先生は、御存命中にある帰着点としてではなく、未来永遠にわたる妙法流布の道程としての「広宣流布」の意義づけを、なんらかの形でしておきたかったにちがいない。「3・16の儀式」は、その意味で、広宣流布はただただ総本山を根本としてなしゆくべきであるとの、戸田先生の甚深のご指導であると、深くうけとめていかねばならない。
4  ともあれ第六十六世日達上人は、久遠元初の仏であられる本門戒壇の大御本尊に久遠の衆生であるわれわれが、参詣、唱題する儀式が基調であると御指南くだされた。御法主上人が大導師として、われら衆生を大御本尊へとお導きくださる儀式こそ、根本的な次元での「広宣流布の儀式」であることを銘記しなければならない。
 式典のなかで戸田先生は「日蓮正宗創価学会は宗教界の王者なり」との発言をした。日蓮大聖人の大仏法が全宗教の王者であることはとうぜんであり、その信徒として大法を受持し、広宣流布しゆくわれらもまた「王者なり」との気概と確信をみっていかねばならない。
5  建設に栄光の誉れ担った青年
 総理が総本山に参詣することになったいきさつは、彼が総理になる以前に戸田先生と知りあっており、大講堂ができたときには参詣したいといってこられたからである。その総理は、当日はおいでにならなかったが、それから半月後、戸田先生の学会葬に、信義を重んじられ、多忙のなか、焼香してくださった。
 その来客招聘の任にあたった中心者は、小泉理事長(当時)であった。そこで私どもは、戸田先生や小泉理事長にも相談した結果、次代を背負う若き地涌の友の陣列で総本山を外護申し上げながら、かの総理を迎えての儀式を行うという計画となったわけである。
6  各方面に連絡を矢つきばやにしたところ、まだ貧しい人が多く、それぞれの職場にあってもたいへん苦しいなか、わが青年部の代表は、あらゆる方法をこうじたであろう||勇んで六千人が、三月十六日の朝方に、続々と集ったのである。
 その日はいまだ寒かった。また現在のようなさまざまな準備もできない時代であったので、先生のおはからいで、壮年部の方々にも手伝っていただき、豚汁をつくり、それをいただいたことが、有名なエピソードの一つとして、語り草となっているのである。
 寒いなか、また遠いところ、一回の連絡で求道の心をもって、総本山に参詣し、さらにまた、人生の師である戸田先生のもとに、馳せ参じてくださった若き同志に、私は改めてこの席を借りて深甚の敬意を表したいのである。
 皆、貧しい姿であった。やりくりをしたのであろう、連絡をとった人々は、一人ももれなく来り来ってくださった。誠実な信心がなければ、とうていできえぬことである。
 当時の若き学会建設の青年たちは、功徳もいらない、家もいらない、財産もいらない、名誉もいらない、ただひたすらに戸田先生とともに大法を弘め、学会の建設の礎となっていくことを、誉れとしていたにちがいない。そこには、不惜身命の精神しかなかった。殉教の栄光を願い、弘教にはしった。
7  行動の人こそ凱歌の人生歩む
 これらの若人の折伏・弘教の労苦のうえに、いまや盤石なる広宣流布の基盤ができあがった。彼らはその柱となってくれたわけである。いま、大御本尊まします総本山の威容も世界に語られる姿となった。また、わが国の立正安国、そして世界の恒久平和の一歩前進もできあがった。
 これらの推進のために、この日集まった若人は、無量無数の人たちへ、若き情熱をもって、法を説きながら走りまわった。この決意と挑戦と、肉弾的法戦なくして、今日の凱歌の結果はえられなかったであろう。
8  信心のうえでの労苦は、大御本尊がくまなくすべて厳格に見通されており、自身の生命のなかに、因果の法理により厳然と生々世々に刻まれていくことはまちがいないであろう。信心とは、人に褒められてなすものでもなく、人に軽されて左右されるものでもなく、絶対なる大法へ向かい、大法とともに生き抜く心である。そこに、全宇宙に響きわたる自身の深遠歓喜の一念が構築されるのである。
 御書に「夫れ浄土と云うも地獄と云うも外には候はず・ただ我等がむねの間にあり、これをさとるを仏といふ・これにまよふを凡夫と云う」とあるごとく、今世に地獄界の生命の傾向性をもてば、死してまた大宇宙の地獄界に入らざるをえない。餓鬼、畜生、修羅等々の心の人々もこれに準じて同じである。
 生きて妙法を唱え、仏界へと近づきゆく大境涯は「法界は寂光土にして瑠璃を以て地とし・金繩を以て八の道をさかひ、天より四種の花ふり虚空に音楽聞え、諸仏・菩薩は皆常楽我浄の風にそよめき給へば・我れ等も必ず其の数に列ならん」と御聖訓にあるとおり、大宇宙の仏界という最極の安穏常楽の空間に、楽しくとびゆくことができるのである。
9  二十五年の春秋過ぎ去り、もはや亡くなった人もいる。退転した人もいる。現在もあの地、この地で、社会のなかにあって、この日の誓いを忘れずに勇み戦い、勇み凱歌の日々をおくっている人が多い。ともあれ、このような重要な節となる会合や儀式に参列したことは、生涯にわたり自分自身の黄金のごとき信心のくさびとなっていることはまちがいない。
 私は、今日の創価学会の基盤をつくってくださった、この日集合参加した人々全員に、真心からの題目を送らせていただきたい気持ちである。
 多忙であったがゆえか、ついにその客はみえず、その代理の方がおみえになった。それでも私どもは、戸田先生を大講堂のロビーに迎え、来客のあいさつもいただき、ただなんとなくわりきれない気持ちで、この儀式は終わった。
 当時、庶務部長であられた後の第六十六世日達上人をはじめ、数人の御僧侶方が、客が来なかったことにはいっさいふれず、その儀式に御参列くださったことを、私は深い感謝の思いとともに、あざやかに思い起こすのである。また、式の司会をしていた私に、日達上人より「なかなかたいへんですね」というお言葉をいただいたことが忘れられない。
10  理境坊で一切の指揮とる
 昭和三十三年正月元日、学会本部での新年勤行会で、戸田先生は、本因・本果・本国土」の「三妙合論」についての話をされた。だが、お体は弱っておられた。肝硬変である。しかし、その年の二月十一日、満五十八歳のお誕生日には、最高幹部を招待なさり、南甫園という中華料理店で全快祝いをしてくださっている。
 二月の下旬、私はいっさいの式典の準備のために、先生より先に総本山に登山した。
 戸田先生一行は、二月二十八日に着山。あくる三月一日には法華本門大講堂落成慶讃の大法要が盛大になされた。その折、先生は私に「この一か月間は、絶対にそばから離れてはならない」と厳格にいわれた。そこで私は、三月の末まで、指揮本部であった理境坊にいた。先生は二階に、私どもは一階で、朝な夕な先生をお守りし、かつ、すべての連絡の中心責任者として、おそばで仕えさせていただいたのである。
 その理境坊は、牧口初代会長以来、戸田第二代会長、そして私もたいへんお世話になった坊であり、その御恩ははかりしれない。当時の御住職は落合尊師であられた。御尊師亡きあと、いまではお子さまも成長なされ、御法主日顕上人猊下の弟子として、令法久住のために活躍されていることをうかがい、うれしく思っている。
 現在の新しい理境坊は、その長年の御恩に一分でも報いるため、せめてもの気持ちとして私が代表となって御寄進申し上げたのである。
11  三月一日の大講堂落慶の儀式には、東京都知事、静岡県知事等の来賓を迎え、全国の同志数千万人が参加し、日淳上人の大導師を賜って、宗門史に残るであろう晴ればれとした式典が行われた。
 戸田先生のお体は、ひじょうに衰弱したごようすで、私が片腕を抱えながら、その日の式典の会場へ向かった。その大講堂の式場に向かうエレベーターの中で、先生は「これで自分の仕事はぜんぶ終わった。いつ死んでもよいと思っている。あとは大作、頼むぞ」とほほえみながらも厳格な口調でおっしゃったことが、胸につきささってはなれない。このとき、戸田先生五十八歳、私は三十歳となっていた。
12  式典を終えられてからも、先生は多くの人とは会われず、理境坊の二階で床についておられた。たまに最高幹部があいさつに来ると会われたが、それもわずかであった。具合がよいときには起きられて、窓際のいすに座られて、大事なことを指示されることもあった。
 このころ、客が十六日に登山することが決定したため、私たちは多忙をきわめていた。すべてにわたって準備をすすめるなかで、先生がもはや歩けないことを知った私は、宮大工の渡会弁治さんにお願いして車駕を作った。あとで戸田先生より「車駕が大きすぎると指揮がとれない」とお叱りをうけたが、いすを乗せるためには大きな車駕を用意しなければならなかったのである。
13  三月十六日の当日、待ちに待った客が来られないことがわかった。多くの青年たちが、三門から御影堂にいたるまで整列し、何時間も待って疲れてしまったことに、私はまことに申しわけなく思い胸が痛んだ。しかし、彼らは忍耐強く待ってくれた。ついに小泉理事長より、どうしても客がこられず代理の方が登山する旨を戸田先生に伝えた。先生は「青年たちに申しわけない。私が代わって青年たちの前に行き、青年たちを激励したい」とおっしゃった。そして車駕に乗られた戸田先生を迎え、大講堂の青年たち全員が集結し、歴史的な儀式となったのである。
 ともあれ、日蓮正宗総本山に七百年間、法灯連綿、嫡々付法、唯授一人で伝えられた伝統法義を根幹として、いま、広宣流布を開きゆく私ども創価学会にも、いくつかの法戦から生みでた伝統の式典の日があることは、後世のためにも重要ではないかと私は考えるしだいである。
14  「追撃の手をゆるめるな」と遺言 
 この三月十六日から、先生のご容体はすっかり悪くなられた。十六日までは具合のよいときには、理境坊二階の日の当たる廊下に出られることもあった。しかし、この日より四月一日に下山されるまで、ほとんど起きられない状態におちいってしまった。私もまた疲れきっていた。医者も来られた。ご親族も来られた。なにかしら暗い予感を私はぬぐいさることはできなかった。もったいなくも、日淳上人もお見舞いに来てくださった。その折の日淳上人の励ましのお言葉と、戸田先生の「このようになって申しわけない」というやりとりも、厳粛な思いとともに、鮮明に私の脳裏に焼きついてはなれない。
 そんなときでも、私は幾度か先生から呼ばれた。あるときは「きょうは何の本を読んだか」と尋ねられ、恐れ入った。またあるときは「きょうはメキシコへ行った夢をみた」ともおっしゃった。一昨年三月、メキシコを訪問したとき、私は何人かの幹部にそのことを話し、ともに戸田先生を偲びつつ語りあったものである。
 また、三月二十四日、私はひとり先生によばれた。先生は厳格に「自分にもしものことがあっても、絶対に追撃の手をゆるめるな」といわれた。
 いっさいの総登山も終わった三月三十日、私は和泉理事(現副会長)とともに、先生の入院準備のため、一度下山した。ご親族ともお会いして相談し、日大病院に手続きをとって、再び登山した。いつも戸田先生を守っておられた当時の和泉ミヨ秘書部長も、たいへんではなかったかと思えてならない。戸田先生の最後の下山の模様は「若き日の日記」等にあるので略させていただきたい。
15  懐かしき共戦の人々
 この儀式の参加していた約六千人のなかより、当時の青年部の代表の名前を記憶をたどってみると、これらの方々が思い浮かぶ。
 北絛浩(第四代会長・故人)秋谷栄之助(第五代会長)森田一哉(理事長)辻武寿(副会長)青木亨(同)山崎尚見(同)和田栄一(同)森田康夫(同)館岡倉市(同)伏木芳雄(同)田原豊(同)横松昭(同)上田雅一(同)柳原延行(同)西口良三(同)池尻進(同)寺井英治(同)山川義一(同)北村信夫(同)山崎良輔(同)岡安博司(同)牛田寛(青年部長・故人)川内弘(青年部参謀・故人) 中西治雄(総務)佐藤武彦(同)篠原誠(同)不破年泰(同)平野恵万(同)井上幹生(同)小宮山昌治(同)吉田顕之助(同)小林宏(同)菅野文夫(同)赤須雪秀(同)田中光義(同)諸富文紀(同)曾根原敏夫(同)日内地延亨(同) 八矢英世(参事)山本雅治(同)赤沢誠(台東長)井上正路(葛飾区本部長)南沢巌(埼玉県副県長)佐久間昇(埼玉・草加圏本部長)松本孔一(茨城県長)辻仁志(兵庫県長)大石忠雄(岐阜県本部長)河北整(三重県総合長)並木重夫(島根県本部長)小野三郎(徳島県長)土屋実(大田区副本部長)酒井義男(第二大田区指導委員)松本了(群馬県長)田中淳之(九州指導委員)ジェームス・カトウ(NSA副理事長)田中勝重(NSB副理事長)山川義次(第二東京・武蔵野圏長)今井幸雄(横浜市緑区副区長)川越崇男(横浜市中区本部長)杉山正治(静岡圏参与)金子一夫(新潟県参与)竹入義勝(公明党委員長)矢野純也(同書記長)浅井美幸(同副委員長)多田省吾(同)石田幸四郎(衆議院議員)渡部一郎(同)田代富士男(参議院議員)市川雄一(衆議院議員)長田武士(同)矢追秀彦(参議院議員)酒井弘一(衆議院議員)三木忠雄(参議院議員)黒柳明(同)竜年光(都議)藤井富雄(同)藤原行正(同)星野義雄(同)有島重武(衆議院議員)原田立(参議院議員)斎藤実(衆議院議員)峰山昭範(参議院議員)西中清(衆議院議員)藤原房雄(参議院議員)藪仲義彦(衆議院議員)小川新一郎(前衆議院議員)二見伸明(同)三宅政一(都議)園部恭平(同)恩田保夫(同)加賀谷忠夫(大阪府議)横松宗一郎(神奈川県議)宮寺新三(城県議)中村慶和(高知県議)坂斎栄次(埼玉県議)及川順郎(公明党山梨県本部長)庭山昌(公明党群馬県本部書記長)田賀一成(福井市議)多田時子(総合婦人部長)秋山栄子(婦人部長)八矢弓子(副総合婦人部長)北絛弘子(婦人部指導長)辻敬子(全国副指導長)青木妙子(全国副婦人部長)栗原明子(同)斎藤順子(同)佐藤淑江(同)小宮山良子(同)山川佳子(同)高邑早智子(北陸婦人部長)馬場作倶子(関西副婦人部長)東尾喜代子(同)石川琴子(埼玉県婦人部長)佐野ケイコ(神奈川県婦人部長)細野静子(北海道副婦人部長)白木キイ子(第三東京・総合婦人部長)大塚泰江(第四東京・副婦人部長)徳野京子(広島県副婦人部長)飯森悦子(長野・中信圏婦人部長)丹羽美枝(初代鼓笛隊部長)高沢計子(茨城県婦人部長)渡部通子(参議院議員)嵐慧子(北海道初代女子部長・故人)
 まだまだ多くの方々がおられることは知っているが、紙面に紹介できないことをご了承ねがいたい。
 また、代表の方々が車駕をかつぎ、私といっしょにその運営の任のあたってくれたことを思い起こす。それには、次のような方々がおられた。
 館岡倉市(副会長)小林宏(総務)八矢英世(参事)井崎直人(神奈川県副県長)森善治(第二神奈川・総合本部指導委員)郡司三郎(第一葛飾区・区壮年部長)近藤伸一(新宿区・本部長)高橋渉佑(墨田区・同)阿部由三(第二大田区・本部指導長)新谷義雄(第三神奈川・支部長)沢田和雄(第三大田・支部壮年長)細谷健範(第二神奈川・副支部長)渡部一郎(衆議院議員)黒柳明(参議院議員)藪仲義彦(衆議院議員)小川新一郎(前衆議院議員)高橋直真(都議)石井武治(神奈川県議)坪井保男(江戸川区議会)岡安孝明(足立区議)遠藤良昭(市川市議)小林晃(元荒川区議)西方一之(故人)
16  広布へ威風堂々の前進開始 
 この神戸の地は「楠公父子」の歴史の地である。戸田先生は「大楠公」(落合直文作詩)の歌がまことにお好きであった。お亡くなりになるまえ二、三年は、しばしば「大楠公」を若き弟子に歌わせ、またご自身も歌っておられた。
  父は兵庫に赴かん 
  彼方の浦にて討死せん 
  いましはここ来れども
  とくとく帰れ故郷へ
 という段になると、かならず目を伏せる先生であった。
 また、先生は「星落秋風五丈原」(土井晩翆作)の歌がお好きであられた。蜀の劉禅を守り戦った諸孔明を偲び、みずからをその身になぞらえて感慨を深くされていたからであろう。
17   成否を誰れかあげつらふ
  一死尽くしヽ身の誠
  仰げば銀河影えて
  無数の星斗光濃し 
  照らすやいなや英雄の 
  苦心孤忠の胸ひとつ
  其壮烈に感じては 
  鬼神も哭かむ秋の風
 と歌うと、かならず目に涙がひかったのが忘れられない。大聖人の御聖訓を虚妄にしないため、「成否を誰れかあげつらふ」の大精神で、身を砕き、妙法のために、そして民衆のため、悩める人、悲しめる人々のため、そして次代を担いゆく若人のための礎となって戦われた先生の胸中には、深く遠く、また広く、荘厳でさえある調べの交差があったにちがいない。
18  あの日から二十五年、総本山の令法久住への厳たる前進と、広宣流布を遂行せんとするわが創価学会の世界的拡大を、かならずや先生は称賛してくださっていると、私は信じたい。
 ともあれ、この二十五星霜のなかには、激しき三類の強敵の嵐もあった。卑劣きわまりない三障四魔の蹂躪もあった。そしてまた、ずるがしこい悪魔の陰謀もあった。小才子たちの裏切りもあった。御宗門を攪乱せんとする邪智謗法の僧も出た。
 しかし私どもは、絶対にまけなかった。私どもは完全に勝った。そしていま再びの威風堂々の前進を開始している。
 三世十方の仏・菩も、諸天善神たちも、かならずや「善哉、善哉」と私どもを讚嘆し、さらにさらに見守りつつ、護りつつ、励ましつつ、わたしどものまわりで躍動していることを確信する昨今なのである。

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