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日蓮大聖人・池田大作

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第五愛知記念幹部会 信心強きは仏界

1983.3.5 「広布と人生を語る」第4巻

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1  「人間」とは人と人との間と書き、「人」には支えあうという意味がある。また「間」は、「門」に「日」と書く。「門」とは日々の生活の出入りであり、人々の毎日の地道な暮らしとの意義があるかもしれない。すなわち、人間の人間としての証は、地道にして正しき生活にある。
 そして、その人間の根本は「生命」であり、その生命の永遠の旅路の「門」をどこに見つけ、三世にわたって、どのような生命の境涯を出入りするかが、人生の根本課題となる。その道は仏法を知らない学者、知識人にはわかるものではなく、それを大慈大悲の御心をもってお教えくださったのが日蓮大聖人であられる。
 つまり、われわれの信心において「生命の門」とは、もったいなくも「大御本尊」であられ、この日蓮正宗の大御本尊に日々、唱題をしていくならば、三世永遠にわたり常楽我浄の人生の門にたしかに入っていけるのである。
 どのような学者、知識人であっても、仏法を知らない人は、生命の実体に暗く、罪障消滅の方途も知らず、また、死後の生命の真実の行方もわからない。三悪道、四悪趣を生々世々に流転するのみである。
 この世は「仮の宿」ともいわれており、移りかわるものである。そこでの世間の非難などは、みずからの良心に恥じることがなければ、恐れるにたりない。大事なのは、永遠の生命を覚知することであり、そのうえでこの人生をどのような境涯で遊楽するかである。そのためにも強盛な信心だけは、絶対に忘れてはならない。
2  日寛上人の御言葉に「法華経を信ずる心強きを名づけて仏界と為す」(三重秘伝抄)とある。別しては日蓮大聖人御一人が末法の御本仏であられるが、日寛上人の御指南をわれわれの信心で拝すれば、御本尊を信ずる心が強盛であることそれじたいが仏の境界であり、御本尊を信じたてまつる一念の強さ、祈りの深さ、信行のたゆまぬ実践によって、仏界を湧現できるとの仰せである。
 いかなる苦悩があってもまず御本尊へと向かい、端座して御本尊に祈り、仏の御使いとしてのご奉公を生涯やりとおす実践の人こそ、真の信心強き人である。
 人間ほど尊いものはなく、人間は極善をあらわしうると同時に、極悪にもなりうる存在でもある。人間をして極善の方向へ向かわしめゆくのが信心であり、三悪道、四悪趣の極悪へと堕していくのが妙法の誹謗である。
 それに対して信心強き人は、現在の信心が因となり、その冥益によっていっさいの願いをかならず叶えていくことを確信してほしい。
 現在は不如意の生活、境遇であるかもしれない。しかし「蔵の財よりも身の財すぐれたり身の財より心の財第一なり」との御金言にお示しのように、どれだけ信心の財を豊かにつんでいるかが大事なのである。すなわち、御本尊に対する信心が強盛であるか、勇気ある潔い信心であるか、それによっていっさいの課題が根本的に解決されていくのである。
3  さらにまた、いやな思い、苦しい思いをすることがあったとしても、それらはすべて魔の所作によるものであることを見破り、それらをつきぬけて毅然と勤行・唱題に励み、広布の活動を力強く推進してゆくことじたいが、信心強き仏界の人生なのである。その強盛なる信心の心を満々たる大河の水の流れるごとく貫いて、生涯、それぞれの立場、地域でがんばりぬいていってほしい。
 そして「悪を滅するを功と云い善を生ずるを徳と云うなり」と仰せのように、この強盛な信心によって過去遠々劫からの罪障を消滅し、福運を増していく||その繰り返しを、永遠にわたって貫いていくところに、各人の一生成仏も広宣流布の発展もある。
 豊橋という地名にちなんで、一人ひとりが御本尊への信心の”豊かな橋“をかけゆく日々であっていただきたい。そして”豊橋ここにあり“との気概ですばらしい人生、家庭を築くとともに、長寿、常楽我浄の「生命の門」への道を歩みつづけていっていただきたい。

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