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日蓮大聖人・池田大作

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練馬区記念幹部総会 ”練馬地球”のルネサンスを

1983.2.14 「広布と人生を語る」第4巻

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1  先日、テレビで、断片的だが映画「ある愛の詩」を見た。主人公は青年弁護士。
 恋人と結婚したものの、妻は白血病のため二十四歳の若さで世を去る。その二人の愛と別離の物語である。
 楽しく、幸せであるべき夫婦をとつぜん襲う宿命の嵐。そして妻を失った夫の悲しく、わびしい姿。それらを見ながら思ったことは、人間いかにこの「宿命」を解決すべきかであった。また、人生の「感傷」を乗り越えて生きぬいていく「力」の源泉を、どこに求めていくべきかということであった。人間は、これら宿命的「業苦」との戦いを繰り返さねばならないようである。
 感傷つまりセンチメンタルには、美しい響きがある。人の心をとらえて離さないものももっている。
 しかし、現実社会は想像以上に厳しいものだ。不幸に対して、人々はいつまでも同情の心をもち続けてはくれない。感傷にひたっているだけでは、けっして人生を生きていけるものではない。現実の苦しみは、他人の同情でもなく、感傷でもなく、自分の力で乗り越え、生きぬいていかねばならないのである。
2  総本山第六十五世御法主であられた日淳上人と、かつて歓喜寮(昭倫寺)で懇談していただいたときの話である。「サツマイモをどこでもよい、植えると、全生命力を発揮して、茎を伸ばそう、伸ばそうとするものだ」という趣旨のお言葉であった。
 人生もまた同じである。生きて生きて生き抜いていくことだ。これが生命の本然の姿である。しかし人生には、未来にいかなる運命が待ちうけているかわからない。
 一寸先は闇である。ましてや、現実社会は、ますます残忍卑劣な風潮を強めている。そのなかを生きぬいていく力、宿命を打開していく力をいかに身につけるか。
 その根源こそ、妙法の御本尊への強き信心にほかならない。
 世間には感傷のとりこにしていくような宗教も多い。このような退嬰的な、真の生命力をうばいゆくような宗教にとらわれ、社会の落後者のような存在にけっしてなってはならない。
3  最近の、青少年たちの非行化はひどすぎる。先日も、中学生ら十人のグループが、横浜で浮浪者を襲い、殺傷するという驚くべき事件が起きた。そうした事件が発生するたびに、新聞や雑誌に学者や評論家の声が掲載される。
 それらを読んで、むなしさを感じるのは私一人ではあるまい。原因の分析も必要だろう。嘆きの声もいいだろう。しかし、もっとも大事なことは、体当たりの実践なのだ。その大人たちの姿を子供たちは待っているからである。
 わが創価学会は、高校生、中学生、小学生、そして青年たちの育成に、仏法を根底として全力をそそいできた。その歴史は長い。そのかげでは日曜日もなく休日もなく生きいきと確信をもって、それぞれの担当者ががんばってくださった。また、壮年部も婦人部の方々も、日夜、わが子のごとく励まし、育ててくださった。その献身的な努力で、悪に走ったかもしれない青少年がどれほど立ち直り、立派に育っているかしれない。その貢献の力は、多くの人々からも讚嘆されている。
 いまも、そしてこちからも、われわれのこの尊き前進のまえには中傷や奸計をもって、われわれをおとしいれようとする魔の蠢動が続くかもしれない。しかし、けっしてわが地涌の勇者は、負けてはならない。
 われら広宣流布に歩みゆく者を諸天はかならず加護すると誓っている。そうでなければ、法華経も御書も、真実でなくなってしまう。そんなことは絶対にありえないのである。ゆえに、長期的視野に立って、誇りをもち、勇気ある堂々の前進をお願いしたいのである。
4  話はかわるが、西洋の近世の開幕となったルネサンスについて、少々ふれてみたい。十五世紀、イタリアのフィレンツェに端を発したルネサンスは、文字どおりヨーロッパにおける人間復興の運動となった。
 そうしたなか、十五世紀後半、ポーランドにコペルニクスが出現する。彼は、当時ローマ教会が認めていた宇宙論である「天動説」に対して、太陽を中心とした「地動説」を唱える。だが、教会の反動をおそれた彼は、自説の出版に消極的であった。
 しかし、彼に二十五歳で師事したレティクスが、この本は出しておくべきだと、青年の純粋な心でその出版を促進する。そしてようやく刷り上がったのは、コペルニクスの亡くなる直前であった。いまわのきわにコペルニクスに届けられた。しかし、コペルニクスは衰弱のため、それを読むことができなかったという。私はこの話を知ったとき、ここに科学者の師弟がある、と感動の心で思ったものである。
 十六世紀には、イタリアにガリレオガリレイが出現し、コペルニクスの地動説を受け継ぎ、深める。しかし、その宇宙観、世界観は、ローマ教会のいれることのできないものであり、ついに裁判にかけられる。そして、老齢の病弱の身で教会の権力のまえに屈伏するが「それでも地球は回る」との有名な言葉を残した。
 ここには、キリスト教と科学ならびに人間との戦いの歴史がみられるが、それにたいして妙法は道理であり、仏法の説く宇宙観がいかに科学の実証と合致しているかに驚かざるをえない。
5  さらに思うことは、日蓮大聖人を当時の全宗教界が悪人として迫害した。くだっていま、われわれの時代も同じであめ。
 永遠の心理である妙法に対して、既成概念の宗教観による偏見をもって悪とし、攻撃をしていることは、仏法の真髄を知らない愚かな人々の言なのである。すなわち、正法の夜明けのまえの、宗教の暗黒時代がいまも続いているとみたい。
 しかし、かならず、人類は、やがてコペルニクスの真理の発見にくらべることのできないほどの、妙法の真理にめざめ、理解し、讚嘆することは絶対にまちがいないと申し上げておきたい。人知も五百年前と今日とでは、隔世の感がある。と同じように数百年後には、妙法を深く深く知り、まちがいなき大真理であると実感できる時代が到来することは、火を見るより明らかなのである。われらの信心と行動は、正義のなかの正義なのである。
6  大聖人は、御自ら一介の凡夫僧として生涯を貫かれた。ここには、甚深の意味があると拝察されるのである。
 大聖人当時の宗教界は、朝廷、幕府、そしてそれらにつらなる権力者となんらかの形で結びつき、庇護を受けていた。
 しかし、大聖人はなんらの権力の庇護も受けられなかった。しかもインドのカースト制度でいえば最下位である旃蛇羅の子と仰せのごとく、当時の社会的身分においては、もっともめぐまれない階層の御出身であられた。このことは、あくまでも人界を根本とされたことを意味すると拝せられる。もとより御内証の本地は久遠元初の自受用報身の仏であられ、日蓮大聖人は「仏界所具の人界」を示されたのである。
 だが、たとえどのような境遇、地位にあっても、人間生命の尊さに変わりはない。ここに大聖人の仏法の出発点がある。
 いちおう「人」の立場から拝すれば、もったいなくも庶民のなかの庶民として御聖誕あそばされた。また「法」の立場から拝すれば、もっとも恵まれない人々を成仏へと導き、宿命の打開をさせ、永遠の幸せを与えゆく大法を顕された。
 「人」「法」ともに、庶民に立脚されて、そこから全人類へ向けて厳然と御一人立たれて法戦を展開されたのが、日蓮大聖人の御生涯であられたのである。民衆を無視してきた貴族仏教とは根本的な相違があることをよく知らなければならない。
 人類四十数億の九九パーセントは、いわゆる庶民であり、常民である。したがって、その四十数億の人間群に妙法の光をあてられた御洞察は、まことに偉大であられ、その御姿は、荘厳であるといわざるをえない。
7  大聖人の仏法は、日蓮正宗の代々の御法主上人の御慈悲により厳護され令法久住されてきた。それを世界へと弘めゆくことこそ、われらの使命なのである。
 弘めゆくのは、われわれ「人間」なのである。人間には国や民族の差別はない。
 妙法という大法につらなった、人間と人間の連帯を広め、強めていく以外に、根本的平和は確立できないのである。
 その過程にあって、日蓮正宗の信者であるという理由で、学会員であるという理由で、また布教活動をしているという理由で、偏見、中傷の言葉をあびせられても、弱気になったり、感傷的になったりすることなく、”これこそ誇り“と自負して進む信仰者であらねばならない。
 人間にとっても、社会にとっても、世界にとっても、「何が大事か」「何を根本とすべきか」||現在はこの「根本」に迷っているといってよい。
 その根本があったうえでの、政治であり、技術であり、平和であり、さまざまな方策でなければならないのである。そうでなければ、本末転倒の人生、社会になってしまう。
 総じていえば、その根本とは「人間」であり、「生命」である。しかし、いちだん深く求めれば、宇宙の本源力である「南無妙法蓮華経」が、永遠にわたる根本なのである。その根本の法が、人間を生かし、生命を開花させ、いっさいの土台となっていくのである。その妙法を根本としないかぎり、本来、目的である人間が手段化されてしまい、永遠に不幸の流転を繰り返してしまうであろう。
8  したがって、この人類の不幸の流転の解決は、宇宙の根源の法たる「南無妙法蓮華経」を根本にする以外になしと申し上げたい。政治家も、科学者も、文化人も、教育者も、すべての人々が、この妙法を根本としていったときに、それぞれがめざす理想を矛盾なく達成できるのである。ここに立正安国の原理のもつ意義があり、恒久的平和も、この妙法の力用によって実現されていくのである。
 いま、われわれは、末法万年への遠征の先駆けとして、願って五濁乱世のこの世に、使命を担って生を享けたのであると確信していきたい。そして、あたかも名優のごとく、病弱の姿をしたり、貧しき姿をしながら、この「根本の法」たる妙法の証明をしつつ、今生の人界の使命を果たしていくのである。この信心に立つならば、これほど楽しいことはないし、悔いなき人生が開かれていくのである。
 われわれが、この世に生まれてきた目的は、「衆生所遊楽なり」と経文に説かれている。つまり、人生を楽しみにきたのである。
 生命の内奥には「元品の法性」と「元品の無明」が存在する。すなわち、われらの胸中の一念には、固定したものはない。青空があり、嵐があり、太陽があり、雪があり、曇天がある。
 「元品の法性」は、信心した生命の青空のような状態であり、これは、われわれをとりまく万象のうえに梵天・帝釈の働きとして現れる。「元品の無明」は、大六天の魔王として現れ、嵐のごとくみずからも苦悩し、人をも苦悩させゆく生命の働きである。
 嵐や曇天の生命を青空へ、太陽の輝きへと、胸中の宇宙を変えていくのが、勇気ある「信心」の二字なのである。
9  練馬の地は、東京二十三区内にあって、清新な大地、未来性に富んだ国土世間である。ゆえに、小さいけれども練馬全体を一つの地球と考えて、”練馬地球“の発展をめざしつつ、いは再びの”信心のルネサンス練馬“の前進をお願いしたい。

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