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板橋区、北区合同の代表者会 公明正大の信心、人生を

1983.1.6 「広布と人生を語る」第4巻

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1  本日は、思いつくままに何点かお話させていただきたい。その一つは、学会の会合は、あくまで午後八時半終了厳守をお願いしたいことだ。こうした時間厳守の問題は、枝葉のことのように思われるかもしれないが、長い長い広布の道程からみればひじょうに大切であると思う。
 会合には、さまざまな職業の人、いろいろな状況の方々が参加されている。いつまでも区切りのない会合のために、多忙な、まじめな方々を悩ませてはいけないとの思いで、学会の決定として終了時間厳守を決めたのである。
 会合終了後の個々の打ち合わせや懇談は、もちろん自由である。しかし大きな区切りだけは、きちんとしておかなくてはならない。ゆえにこの席をお借りし、再確認をしておきたい。
2  次に痛感することは、幹部が会員や後輩から嫌われ、信頼されていないところほど、不幸なところはないということだ。これまで多くの人の姿や指導をみ、分析もしてみて、つくづくそう思う。
 そういう人は、世間においても嫌われているものだ。清浄な世界である学会を、そのような一部の幹部のために、けっして濁らせてはいけない。
 また、会員の方々はまことに賢明であり、よく見ていることを、幹部は知っていただきたい。
 指導者として大事なのは人柄である。人から嫌われ、信頼されない人には、その理由となる何かがあるものだ。
 たとえば”威張る”ということである。すべての人は、御本尊のもとに平等である。まして広布の同志は尊い仏子だ。したがって、すべての同志に対して尊敬すべきであって、役職が上だからといって威張るようなことがあっては絶対にならない。
 また、誤りがあった場合、それを正してあげるために、ときに厳しい指導、激励が必要なこともある。しかし、指導と感情は違うのである。自分の感情にふりまわされての理不尽な暴言は、心を傷つけるのみで、納得の指導とはならないことを知ってほしい。
 幹部としての偉さ、誠意というものは、組織の最前線の方たちのところまで足を運び、十分に語り合うことだと思う。
 大きな会合の壇上でいくら立派な話をしたとしても、それでは、人々が何を望み、何を求めているかとの、心の琴線にはふれることはできない。
 組織のうえでの指導をするばかりで、自身の人間革命、成長のない幹部は、けっして信頼を得ることはできない。世間においてもまた、同じ結末になってしまうものだ。
3  幹部の指導、言動は、人々を御本尊への信心に導いていく誠実と真心の行動でなけれはならない。けっして、自己の栄達のために会員を手段にしてはならない。
 学会もこれだけ組織が大きくなると、要領のよい、口のうまい、才智の人が役職につき、役職で信心の力があるかのような錯覚におちいる幹部が出てくる可能性がある。未来の広宣流布へのためにも、この一点だけは厳しく心にとどめていただきたい。
 ともあれ、学会は、まじめな信心の人、真剣な同志によって築かれてきた。そして、信心を根本にたがいに励ましあい、うるわしい同志愛で進んできたのである。
 ゆえに、その伝統、信心の清流だけはけっして失っていけない。
 板橋区、北区にも、懐かしい草創の同志が多い。広布のために寝食を忘れて戦い、苦労され、今日の盤石な基礎を築かれた大功労の方々である。
 現在は、若い後輩の人が組織の指導的立場にあるかもしれない。しかし、いかなる立場であれ、信心は信心である。真の仏道修行は形態ではない。絶対の大仏法に深く根を張り、大福運のリズムにのっての、けなげな前進をお願いしたい。
4  そこで若い幹部の方々に申し上げたいことは、とくに年配の方々に対しては、どこまでもいたわりの心と、長寿を願っての接し方でなくてはならないと思う。
 また、婦人部の方々には「優しく」「親切」であっていただきい。
 男子部には「使命」「訓練」、女子部には「希望」、学生部には「勉学」と「目標」、未来部には「勉強」と、それぞれに合った激励が大事である。
 指導は、組織の理論で、なんでも共通にすればよいというものではない。一人ひとりが、主体性をもった人格として、どうすれば成長でき、安心でき、希望をもっていけるかをよくよく配慮していかなくてはいけない。
 そして各人の状況、境遇に応じて盤石なる生活のもとに二倍、三倍、五倍、十倍の力が発揮できるような指導であるべきだ。また、各部には各部の特色がある。それをよくわきまえ、きめこまかな指導のできる人が、本当の指導者であると訴えておきたい。
5  御書(八風抄)に「あながちに・わるびれて・みへさせ給うべからず、よくと名聞・瞋との」との御聖訓がある。この御文は、四条金吾が讒言による冤罪を受けたさいの御教示である。
 どのような讒言、冤罪に対しても「悪びれることなく、堂々といきなさい。そして欲や策や名聞にとらわれることなく、また怒ることもなくいきなさい」と仰せなのである。
 われわれの前進にも、讒言はある。また、信心にかこつけての非難、中傷もある。しかし、それらを歯にもかけず、この御文どおりに堂々と広布の道を進んでいきたい。御本尊根本の御聖訓どおりの歩みに、かならずや功徳の花は咲き薫ることを確信してほしいのだ。
 御法主上人猊下の「年頭の辞」に「公明正大に誠実を根本として進むところに必ず天の加護があり、何物にもまして尊い姿があります」と仰せである。
 この御指南のように、正々堂々たる人生で、かぎりない法戦をお願いしたい。そこに、御本尊につらなり、自分自身の永遠なる幸せへの、因果の理法にのっとった活動があるのである。

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