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日蓮大聖人・池田大作

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富山県記念支部長会 人生の究極は”歓喜”

1982.9.11 「広布と人生を語る」第4巻

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1  本日は、北陸広布開拓二十五周年を記念しての富山の支部長会、心から祝福申し上げる。いっしょに勤行・唱題でき、皆さまのご長寿、ご多幸、そして富山の広宣流布の大道が無限に開けていくよう、ご祈念させていただいた。
 富山といえば、まず思い起こすのが、まさに開拓の人であった笹本正信さんである。(笹本さんは草創十二支部時代の初代の本郷支部長。富山は大半が本郷支部に所属していた)そして高杉敏雄さん(初代富山支部長)である。ともにいまは亡き人であるが、富山広布の歴史に永遠に輝く誉れの方たちである。
 また、東京から馳せ参じ、本施設、出席されている前県長の佐藤実さんもそうだ。ガンに勝ち、健康な姿を見せてくださり、ほんとうにうれしく思う。現在は、そのあとを受け継ぎ、牧稔県長が懸命に指揮をとっておられる。
2  信心には、悔いを残してはならない。永遠に輝きゆくべき生命を曇らせることになるからである。皆さんはこれからも、牧県長を守り支えて、悔いなき富山広布の歴史を刻んでいっていただきたい。また今回は、時間的余裕がなくて、多くの方々にお目にかかる機会ももてず残念だが、同志の方々にくれぐれもよろしくお伝えねがいたい。
 過去に、宗教は地域の旧習や、人々の生き方に深く根を張って、永年のあいだ、巨大な力をもってきた。そして、新しいもの、相容れないものに対しては、ねたみや憎しみを複雑にからまながら、反動的に排除し、伝統に名を借りて、何百年という命脈を保ちつづけてきたわけである。
3  今日では、既成宗教は形骸化し、まさに”死火山”といってよい。これにかわって戦後、数多くの新宗教が勃興した。しかし、それもいまでは”休火山”と同じ状況にあるとみたい。
 そのなかにあって、ただひとつ、日蓮正宗創価学会のみが、皆さまの信心のご活躍によって”活火山”のごとく、社会に、人生のなで脈動している。人間の幸せ、地域への貢献、世界の平和を願っての日夜の尊い活動を繰り広げている。御聖訓に照らして、その功徳は大にして、その人生はまた最高であると確信されたい。
4  最近、親しいハワイ大学の教授から手紙をいただいた。その教授の書面に、私がソ連を訪問した折、トルストイの家をたずねたことを知っておられ、教授もそこを訪れられたとあった。そして、次のようなトルストイの一文に出あい、即座に私を思い起こしたとも記してあった。
 それは「歓びたまえ!歓びたまえ!歓喜こそ生命の肝心なり、人生の目的なり。
 太陽の恵み、星の輝き、草木と動物と民衆の姿に、歓喜しようではないか。そして何ものもこの歓喜を損なわぬよう、意を注ぎたまえ。もしも歓喜が損なわれたら、君は、どこかで過ちをおかしたのだ−− そのもとをたずね、過ちを正したまえ」との言葉であった。
5  この一文は、トルストイが、あるべき人生の究極の姿について述べたものといってよいだろう。人生は、さまざまである。喜びもあれば、悲しみも、また、楽しみも苦しみもある。だが、人間の本来の究極の一念というものは、歓喜でなければならない。歓喜に彩られた人生こそ、人間の元来の願いであり、最高、究極のものでなければならないという意味である。
 しかし、現実の人生は、まったくこれに反して、苦悩と悲嘆とに圧しつぶされんばかりである。しかし、トルストイは、そうであってはならないと思考したのである。
6  日蓮大聖人は法華経五百弟子品の「貧なる人此の珠を見て其の心大いに歓喜す」の文を受け「此の文は始めて我心本来の仏なりと知るを即ち大歓喜と名く所謂南無妙法蓮華経は歓喜の中の大歓喜なり」と仰せである。
 まったく大聖人の仏法は、人生道にあって、完璧にして不変の法と道を示されている。
 文豪トルストイのこの一文は、歓喜こそ生命の肝心、人生の目的であるというが、それを失っている過ちの根本がどこにあるか、どうすれば取り戻せるのかの具体性を述べていない。しかし、大聖人のこの御文のなかに、その具体的な方途が明確に示されているのである。
 ここでその現実的、具体的な方途として、大聖人は、御本尊に南無妙法蓮華経と唱えることそれじたいが「歓喜の中の大歓喜」の人生となると仰せなのである。
 煩悩即菩提の原理のうえから、苦悩もそして悲しみも、すべてを歓喜の生命のなかにつつみながら、強靱なる大歓喜の人生をおくれるのであると明示してくださった。
7  自己の生命に歓喜の心がなくなり、人を憎み、人を妬み、人を不幸に堕としゆく心には、もはや、真実の「歓喜」の一念はない。それは、仏法に説く地獄界であり、三悪道に堕ちた心である。トルストイの言葉のなかに「もしも歓喜が損なわれたら、君は、どこかで過ちをおかしたのだ−− そのもとをたずね、過ちを正したまえ」とあるごとく、これこそ、大なる過ちをおかした人のことなのである。すなわち、自身に妙法への信心がなくなり、人を中傷し、批判しゆく退転の人々は、まことにかわいそうであり、不幸であるといわざるをえない。
8  本日は、有名な持妙法華問答抄の一節を、ともどもに拝読したい。
 「つらつら世間を見るに法をば貴しと申せども其の人をば万人是をにくむ汝能く能く法の源に迷へりいかにと云うに一切の草木は地より出生せり、是を以て思うに一切の仏法も又人によりて弘まるべし之に依つて天台は仏世すら猶人を以て法を顕はす末代いづくんぞ法は貴けれども人は賤しと云はんやとこそ釈して御坐おわし候へ、されば持たるる法だに第一ならば持つ人随つて第一なるべし」と仰せである。
9  この御文は、日蓮大聖人の御立場について、仰せになっているのである。しかし、信心のうえから、大聖人の信者であるわれわれの立場についてみた場合も、また同じ姿となることが拝せる御文である。
 仏法は、弘法の人がいて、初めて弘まるものである。私どもはたとい、世間が、社会的地位とか、経済状態とか、学歴などの外見的姿だけをみて、驕りたかぶって、妙法受持の人々を軽してこようとも、この御文を強くだきしめ、広布への行動に限りなく邁進していかねばならない。
10  「持たるる法だに第一ならば持つ人随って第一なるべし」とは、人間の貴さは、持っている法によるということである。
 この法、すなわち末法の大白法は、唯授一人、血脈付法の御歴代の御法主上人御一人が、お伝えあそばされているのであり、そのうえからわれわれ信徒のために御本尊をお認めくださっているのである。ここに、令法久住があることを知らねばならない。
 したがって、われわれは総本山を外護申し上げ、御法主上人猊下の御指南のもと、僧俗和合の道を歩みゆくことが正しいのである。それを機軸として、われわれは、社会のなかへ、民衆のなかへ、広布の活動を展開しているわけである。
11  よく、私どもは非難、中傷される。これは、大聖人の仏法を正しく行じているがゆえである。仏法のこと、信心のことは、不信、謗法の人々にわかる道理がない。
 私どもがいちばんよく知っているし、確信があるわけである。それを、仏法も知らず信心もしない人が、独断的に、感情的に、いくら攻撃しても、けっして負けてはならない。われわれは、いまだ仏法を知らざる人々に、教える立場にある。多くの人々は、教わる立場にあるといってよい。それを本末転倒して、信心なき人々の言動に紛動されてしまうことは、まことに道理に合わないわけである。われわれこそ正法を教える立場にあるとの確信、この一点が信心であると知らねばならない。教わるべき立場の人に攻撃されて退転するようであっては、もはや信心ではないのである。
12  九月十二日は、日蓮大聖人が「竜の口の御法難」にあわれた日である。その御法難のさいは、死刑囚として、その御身をば晒し者のごとく、鎌倉の道をひかれていかれたのである。この御姿をお偲びするごとに、私は紅涙したたる思いがしてならない。
 その御姿を拝するならば、私どもの難はあまりにも小さい。私への非難、中傷、も、まったく微々たるものと思っている。私どもは、大聖人の御一生の御姿を拝しながら、潔い信心の誇りを、生涯にわたって失ってはならない。
 富山の方々は、これまで大変ななかをほんとうによく戦ってこられた。よく耐えてこられた。耐えることが信心の一つである。ともあれ、皆さまの心情を思うとき、私はこれからも全力をあげて「富山がんばれ!」と申し上げながら。惜しみなく応援していくつもりである。
 ご長寿であっていただきたい。所願満足の人生であっていただきたい。生活のうえに、勝利を飾っていただきたい。そして、いずこの地にあっても、「私は富山の出身である」との誇りをもって、後世の人たちの先鞭をつけたといわれる一人ひとりであっていだたきたいのである。

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