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日蓮大聖人・池田大作

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宮城県記念幹部会 「如蓮華在水」の信心、人生を

1982.8.20 「広布と人生を語る」第4巻

前後
1  三年半ぶりの宮城訪問にあたり、ただいま御本尊様に、皆さま方のご多幸とご長寿を、心よりご祈念させていただいた。
 この数年来、さまざまなことでご迷惑をおかけし、申しわけなく思っている。過去は過去とし、いま再び宮城の前進を心からお願いしたい。
2  「発心真実ならざる者も正境に縁すれば功徳猶多し」との妙楽の言葉をひかれての御指南がある。
 正境とは大御本尊であられる。御本尊が偉大であられるがゆえに、たとえ真実の発心でなくとも御本尊に縁しゆくだけで功徳がある。まして、信心の動機がいかなる世法的な願いであったとしても、御本尊を拝しながらの真剣な唱題であるならば、そこにはかならず功徳が薫ってくることはまちがいない。
 たとえば、高校野球で勝ちたいと願っての唱題であっても、唱題したということによって、自身に功徳が薫発される。選挙は国民の義務であり、権利である。選挙の支援そのものに功徳があるのでなくして、勝ちたいと願ってするところに功徳があるのである。
3  御聖訓に「夫れ仏法と申すは勝負をさきとし、王法と申すは賞罰を本とせり」と仰せである。「王法」つまり賞罰を本とする世界であり、「仏法」は勝負を先とするのである。
 清濁あわせのむ現実社会であるがゆえに、正義だからといって、かならず勝利するとはかぎらない。しかし、正義は、勝ってこそ、広く世に証明されるものであることを知っていただきたい。そのためにも、強盛なる信心で、仏法勝利の人生を築きあげていただきたいのである。
4  仏法には「如蓮華在水」との原理がある。これは、仏教に縁の深い蓮華の花の姿をとおし、信心のあり方を教えられたものである。
 蓮華は、泥水にあって、しかも、その汚泥に染まらず、美しい花を咲かせゆくものだ。
 現実社会は、けっして清らかなものではない。むしろ泥沼のような状況が本来の姿である。われれの十界三千のこの人生は、それを離れては存在しないのである。
 悩みと、苦しみと、悲しみ多き現実かもしれないが、「如蓮華在水」のごとく、厳然として妙法を証明しゆく毅然たる信心の姿勢であっていただきたい。
5  いっさいは、大御本尊へむかいゆく一念の姿勢できまる。私どもは、大聖人の眷属である。日蓮正宗の信徒である。なれば、そのなかにあっての生老病死は、ことごとく、本有常住の妙法に照らされて、永遠に幸福への方軌にのっとっていけるのである。われわれの人生は、有上道ではなくして、無上道なのである。魔の眷属はその正反対である。その他、それに準じて考えていただきたい。
 最後に、四恩抄の「魔王の習として三悪道さんあくどうの業を作る者をば悦び三善道の業を作る者をば・なげく、又三善道の業を作る者をば・いたうなげかず三乗とならんとする者をば・いたうなげく、又三乗となる者をば・いたうなげかず仏となる業をなす者をば強になげき事にふれて障をなす」との一節を拝し、この日の指導としたい。

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