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日蓮大聖人・池田大作

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第十回伸一会研修総会 「親心本尊抄」に学ぶ

1982.7.30 「広布と人生を語る」第3巻

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1  きょうは、広宣流布を推進し、実践していかなければならない使命ある縁深き「伸一会」、また、学会後継の宿命を背負って立つ「伸一会」の第十回研修総会を、心からお祝い申し上げる。
 諸君は、大聖人の仰せの「我が門家は夜は眠りを断ち昼は暇を止めて之を案ぜよ一生空しく過して万歳悔ゆること勿れ」との、永遠の学会精神を忘れることなく、“将の将”として進んでいただきたいのである。“将の将”としての使命をもつ人々は、苦労をしなければならない。人何倍かの苦労をしていただきたい。そうでなければ、多くの人々の苦労を知ることのできる真の指導者とはなれないからである。
2  それは、昭和二十五年のころからである。
 私の入信から満三年を経ていた。その私に、日蓮大聖人の甚深、最極の大法門を徹底して教え、徹底して信心の骨髄ともいうべきものを鍛練してくださったのは、戸田城聖先生である。暑い日も、寒い日も、朝八時すぎから、約一時間、一対一の御書の研鑽が始まった。最初は「立正安国論」からであった。場所は、市ヶ谷の先生の事務所であり、それは幾年にもわたって続いた。
 まだ、独身であった私は、朝起きられず、先生より遅れることも、しばしばあった。しかし、先生はけっしてしからず、悠然と待っていてくださった。毎週の日曜日もご自宅で、かならず講義の日となっていた。
 一日、一日はまことに早く、人本尊開顕の書「開目抄上下」の講義が終わった。
 続いて「報恩抄」が終わり、「時抄」も終わった。やがて「観心本尊抄」を学ぶ段に入っていった。
 大石寺第二十六世日寛上人の文段を、私は読み始めた。『富士宗学要集』におさめられた漢文である。無学の私には、なかなかうまく読めなかった。
 「夫れ当抄に明かす所の観心の本尊とは、一代諸経の中には但法華経、法華経二十八品の中には但本門寿量品、本門寿量品の中には但文底深秘沈の大法にして本地唯密の正法なり。この本尊に人あり法あり。人は謂く、久遠元初の境智冥合、自受用報身。法は謂く、久遠名字の本地難思の境智の妙法なり。法に即してこれ人、人に即してこれ法、人法の名は殊なれども、その体は恒に一なり。その体は一なりと雖も、而も人法宛然なり。応に知るべし、当抄は人即法の本尊の御抄なるのみ」(日寛上人文段集443㌻)
 先生の眼光は鋭く、私が拝読するたびに、小さくうなずきながら講義が始まる。
 「この御抄は『日蓮身に当るの大事なり』と仰せの仏法の奥義であり、広大深遠の御本尊の、無量無辺の功徳の妙用を顕現された御書である」と。その真剣なまなざしと大信力からほとばしる生命の波動は、いまもって私の生命に刻みつけられている。
3  毎日曜日の講義は、先生のお宅でおこなわれた。「当体義抄」「百六箇抄」「御義口伝」「三世諸仏総勘文教相廃立」「諫暁八幡抄」「兄弟抄」等、すべての重要な御書を学んだ。朝から夕方まで、先生の真剣な講義は続いた。このときは、柏原ヤス女史をはじめ、数人の門下もくわわった。昼食は先生ご自身でつくられ、ごちそうになったこともある。
 当時、御書は、身延派編纂の御遺文集(霊艮閣版)を、やむをえず使用していた。よく先生は、「一日も早く、日蓮正宗版の大聖人正統の御書を発刊せねばならない」との信念を述べておられた。それが、立集七百年を慶祝して発刊された、現在の日蓮正宗大石寺版の御書全集である。
4  先生の講義は、ひとすじに大法弘宣に直結し、大信力、大行力を呼び起こしゆく講義であった。また、一貫して日蓮正宗の伝統法義をふまえ、つねに日寛上人の文段を拝されての講義であった。
 「次に『観心本尊』の文点を詳らかにするとは
 問う、観心本尊の文点、古来の諸師或は『心の本尊を観る抄』と点じ、或は『心を観る本尊抄』と点じ、或は無点等なり、何れの点を用ゆべきや。
 答う、此等は並びに題の意に非ず。今謹んで点じて云く『観心本尊抄』と云云」「問う、教相の本尊・観心の本尊、その体如何。
 答う、今いう所の教相の本尊とは、文上脱益・迹門の理の一念三千、これを教相の本尊と名づくるなり。観心の本尊とは、文底下種・本門の事の一念三千、これを観心の本尊と名づくるなり」(日寛上人文段集447㌻) 
5  このように御書の一文を拝するたびに、即座に文段をひもといて教えられた。
 さらに、広く社会に広宣流布しゆくために、諸科学の事例を譬えとして、縦横無尽に、いかに一大秘法の根本にして絶対であるかを訴えられた。あるときは文学をとおし、あるときは教育学をとおし、あるときは政治学を、あるときは西洋哲学をとおして、無量義は妙法の一法より生ずるの原理を、諄々と語ってくださった。数学者であり、教育者としても知られた先生の講義は、まことにむだがなく、明快にして、一語一語が胸中に、頭脳に、鮮明にたたきこまれたのであった。
 光栄にも私は、この十大部講義の修了証書の第一号を、特別にいただいたのである。
6  私たちは、よく先生と旅をした。地方指導のためであり、折伏のためであった。
 上野駅から東北地方へ旅したときのことである。車中で数人の若き門下を相手に、御書の研鑽が始まった。「観心本尊抄」についての質問からであった。かたわらの座席にいた乗客は、初めは迷惑そうであった。
 しかし、先生は、かわいい求道の門下のために、一時間も二時間も、静に語ってくださった。
 先生は私たちの質問にさきだって「観心本尊抄」の題号の読み方について、日寛上人の文段をまず拝され話された。「これは“時応機法”の四義にまず約す。そして末法の始めに御本仏日蓮大聖人が御出現になり、始めて弘むるがゆえに“後五百歳に始む”と読むのです。在世脱益の本尊を簡び、末法下種の本尊を顕して衆生の観心を成ぜしめるがゆえに“観心の本尊抄”と読むのが、正しい日蓮正宗の読み方なのである」と強調された。
 宗教の最重要・根幹をなす「本尊」の意義を徹底して訴えられた。さらに、その「本尊」に南無しゆく信心のいかに重要であるかを、第一義として語ってくださった。
 さらに、本尊抄の冒頭に引かれている、一念三千の出処を明かした「摩訶止観」第五の文について、一念三千の法理を、ユーモアを交えながら、かみくだくように教えてくださった。
 そして、「夫れ一心」の“一心”とは、久遠元初の自受用身の一念の心法であり、御本尊の中央におしたための“南無妙法蓮華経”がその“一心”であるとの深義を述べられた後、「此の三千・一念の心に在り」との御文を引かれ、私たちの衆生の信心の一念のなかに三千が具すること、信心なくんば絶対に成仏はかなわぬことを、語気を強めて指導された。
7  先生は、私たちの質問に対して、一つひとつ御文を拝されながら指導をしてくださった。
 ある人には「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与え給う」を、ある人には「在世の本門と末法の始は一同に純円なり但し彼は脱此れは種なり彼は一品二半此れは但題目の五字なり」の御文を引き、また「今末法の初小を以て大を打ち権を以て実を破し東西共に之を失し天地顛倒せり迹化の四依は隠れて現前せず諸天其の国を棄て之を守護せず、此の時地涌の菩薩始めて世に出現し但妙法蓮華経の五字を以て幼稚に服せしむ」の個所の質問に対しては、巧みな比喩をもってわかりやすく語ってくださった。
 また、ある人が“観心”について質問したときにも、戸田先生は「観心とは我が己心を観じて十法界を見る是を観心と云うなり」との御文を拝し、さらにその拝し方についても、附文の辺と元意の辺があるとされ、大聖人の御意をもって拝するならば、「己心を観じて」とはすなわち御本尊を信ずるの義であり、「十法界を見る」とは妙法蓮華経と唱うる義であることを明確にされた。
 その結論は、ただ御本尊を信じて妙法を唱えれば、御本尊の十法界はまったくわが己心の十法界と合して一なりと観ずることができる−−これを末法の観心というのである、とのお話であった。
 「要するに“観心”とは信心である。本尊抄を拝することによって、深く強き信心を奮い起こして御本尊に南無することこそ肝要なのである。本抄は、本門戒壇の大御本尊建立という大聖人の出世の本懐につうずる重書であるということを肝に銘ずべきである。透徹した信心をもって日々御本尊を拝するのでなければ、本抄を正しく拝したことにはならない」と。
 また、「大聖人の仏法は観心本尊抄に見られるごとく“悟りの大法門”であられる。絶対にして完璧なものである。世界のあらゆる哲学、思想、宗教はすべて大仏法からみれば未完であり、与えていえばその序分にすぎないのでありる」と述懐されていた。
8  最初は迷惑そうにしていた周囲の乗客も、初めて耳にした深遠な法理を、それとなく聞くうちに、感銘をおぼえる者も出たようである。この車中での乗客の一人が、数年後に、それが縁となって入信したということを聞いた。
 このような講義の光景は、いずこにも見られた。あるときは飛行機の中に、また、あるときは青函連絡船の中に、そうした先生の姿があった。先生は、けっして、もう疲れたとはいわれなかった。
9  昭和二十五年の暮れのことと記憶している。先生と湘南電車で二人だけの旅をした。車中、例によって御書を開いた。「観心本尊抄」であった。
 先生は即座に、日寛上人の文段を開くように命じられた。
 「またまた当に知るべし、この文の中に四種の力用を明かすなり。謂く『我等受持』とは即ちこれ信力・行力なり。『此の五字』とは即ちこれ法力なり。『自然に譲り与う』は豈仏力に非ずや。所謂『信力』とは一向に唯この本尊を信じ、この本尊の外には全く仏に成る道無しと強盛に信ずるを即ち『信力』と名づくるなり。……今末法に入りぬれば余経も法華経もなし。故に余事を雑えず、但南無妙法蓮華経と唱うるは即ちこれ『行力』なり」 
 「この本尊の力用化功広大、利潤引深なるは即ちこれ『法力』なり。『仏力』というは久遠元初の自受用我が身の当体、自行化他の因果の功徳具足円満の妙法五字を『我本立誓願』の大悲力を以ての故に、一幅の本尊に図顕し、末法の幼稚に授与する時、我等この本尊を受持すれば、自然に彼の自行化他の因果の功徳を譲り与え、皆悉く我等が功徳と成し、『如我等無異』の悟りを開かしめたまうは、偏にこれ『仏力』なり」(日寛上人文段集486㌻)と拝読した。
 そのとき、先生は車窓から広大な太平洋を眺めながらいわれた。
 「あの太平洋のような大境涯の信心で、この御抄を拝していかなければ、御本仏の御心に近づくことはできないよ。ただ才智で、御書がわかればよいとする人々は、大なる過ちを犯してしまうのだ」と。
 御書を拝する姿勢の根本的指導であった。私は、稲妻にうたれたような衝撃をおぼえた。
10  またあるときには、「天晴れぬれば地明かなり法華を識る者は世法を得可きか」と御文の段に入った。
 先生は「この『天晴れぬれば』とは、法華を知ること、『地明かなり』とは、世法を知ることです。世法を知るとは、日蓮大聖人の場合においては、御在世当時の天変地夭が地涌の菩出現の先兆と知ることです」と、その本義を述べられたうえで、「あえて私どもの信心から拝するならば、信心さえしていればそれでよいとの安易さを厳しく戒められているのです。信心は即生活です。信心は即現実です。観念の遊戯ではけっしてない。真の信心ある者は、この御文をとおしてわかるように、わが現実の生活、仕事、また事業を、いかに改善していくかを考え、発展、進歩させていかなければならないとの仰せと拝せるでしょう。それを、信心に名を借りて、努力もせず、工夫もせず、生活上のもっとも大切な世法をおろそかにするようであっては、この御文に反するといえます。それを、御本尊に功徳がないものと誤ったり、また世間にもそう思わせてしまうことは、広宣流布の大きな妨げになるのみならず、それでは謗法になってしまいます」と、厳しく指導された。
 この指導は、後日、『大白蓮華』の巻頭言となり、以来、真の信心即生活のあり方を示す明確な指針となったのである。
11  またあるとき、私は仲間とともに御書を拝しながら論議しあった。その光景を、先生はじっと見ておられた。
 その御文は、「其の本尊の為体本師の娑婆の上に宝塔空に居し塔中の妙法蓮華経の左右に釈迦牟尼仏・多宝仏・釈尊の脇士上行等の四菩薩・文殊弥勒等は四菩薩の眷属けんぞくとして末座に居し迹化他方の大小の諸菩薩は万民の大地に処して雲閣月卿を見るが如く十方の諸仏は大地の上に処し給う迹仏迹土を表する故なり、是くの如き本尊は在世五十余年に之れ無し八年の間にも但八品に限る、正像二千年の間は小乗の釈尊は迦葉・阿難を脇士と為し権大乗並に涅槃・法華経の迹門等の釈尊は文殊普賢等を以て脇士と為す此等の仏をば正像に造り画けども未だ寿量の仏有さず、末法に来入して始めて此の仏像出現せしむ可きか」であった。
 やがてこの御文の解釈が二派にわかれた。両者とも「こう拝するのが正しい」といいあって譲らなかった。そのとき、先生は「大聖人の御聖訓を、凡夫の身であるわれわれが、“こう拝する”と断定することは、絶対にあってはならない。“このように拝せる”とか、“このような拝し方かある”というならまだしも、いまだ得ざるをこれ得たりと思う、増上漫になっては絶対にならない」とおっしゃった。このひとことは、いまもって私の求道への謙虚さの、ひとつの原点となっている。
 さらにつづけて、「御書は、末法の御本仏の経典である。一行一行、一語一語をば、絶対なりと南無しながらの拝読でなければならない。いささかたりとも、我見でわかったように錯覚してはならない」とかさねていわれた。私たちが身ぶるいするほどの厳しさが、そこには顕れていた。先生の講義は、まさしく剣豪の修行を思わせるものであり、あいまいな解釈は許されなかった。また、信心なき解釈はすぐに見破られてしまった。
12  またあるとき、講義はたまたま羅什三蔵の故事の段に入った。先生は「彼の羅什三蔵は、翻訳に絶対にまちがいはないとの誓願の証明に、舌が焼けなかったとある。われわれ凡夫の御書の拝読は、あまりにも浅いし、誤りもないとはいえない。自分なんかの舌はきっとすぐ焼けてしまうだろう」と、呵々大笑しておられた姿がなつかしい。
 すべて私の責任ではあるが、それがかえって、若くして教学を理論とのみとらえ、観念的な教学として偏重することになり、いつしか増上漫に向かわしめてしまった。しだいに不純な響きさえ感ずるようになったときは、もはや遅かった。のみならず、反逆し去っていった。
 一功労者の流れをみし情実に負けて、重大なる教学の中心者にしてしまったことに、不明を恥じる昨今である。信心には、絶対に私情をはさんではならないと反省する。
13  いま、日蓮正宗御宗門においても、仏法の師であられる御法主上人猊下に師敵対する僧俗が出たことは、まことに悲しむべきことである。これは恐ろしき謗法であり、真の日蓮大聖人の仏法を信解していない証左なのである。血脈付法の御法主上人を離れて、正宗の仏法はありえないのである。
 広宣流布そして正法正信の直系を離れ、我見の教学を論じ、背信の一群をリードしたとしても、それは異説邪道である。そのようなごまかしの教学に絶対にたぶらかされてはならない。また、摧尊入卑もけっしてあってはならない。正法正信のために、後世のために、私どもは強く戒めておかねばならないと思う。
 ともあれ、大聖人の仏法を学する者は「未だ得ざるを為れ得たりと謂い」という“増上漫”に、断じてなってはならない。まためどもめどもつきぬ大法門を、月々年々に求めゆく謙虚な姿勢がなくてはならない。多少、教学の理解があり、かつまた講義が巧みであるからといって、それがただ自身の名誉や慢心であったり、エゴのアクセサリーであったりしては、けっしてならない。そのような轍を踏む者を、私たちは二度と出してはならない。
 信心から昇華された、真の教学であるならば、おのずから悩める友、悲しめる友に、正法を教えゆかんとする折伏を行じていくようになるのである。そうでなくして、教学のための教学という趣味的ないき方であったとすれば、大聖人のおしかり
 をこうむることはまちがいないであろう。
 諸法実相抄の「行学の二道をはげみ候べし、行学たへなば仏法はあるべからず、我もいたし人をも教化候へ、行学は信心よりをこるべく候、力あらば一文一句なりともかたらせ給うべし」との御金言のごとく教学はあくまでも正しい信行のあり方を学び実践するためであり、一生成仏、広宣流布のためであることを、くれぐれも忘れてはならない。
14  戸田先生の門下への厳しい指導の根幹は、「信心は大聖人の昔に還れ、教学は日寛上人の時代に還れ」ということであった。
 こうした、戸田先生の教学に対する厳格な指導を、本尊抄に拝するたびになつかしく思い起こすとともに、私はこの精神をいまふたたび全学会のなかに甦らせていかねばならないと痛感している。
 信行の進むにつれて、御書の拝読の深さも変わっていくものである。御書の拝読においては“これでよし”との考え方は、絶対につつしむべきである。いま、拝読した観心本尊抄も、数年後に拝読したときと、さらに十年後に拝読したときとでは、その深遠なる深さの体得に違いがでてくるであろう。
 大聖人御入滅の後、唯授一人・血脈付法された第二祖日興上人は、大聖人の広大無辺の大仏法を、いささかも違えることなく、令法久住されることに無量の辛労をつくされた。
 以来、法灯連綿と七百三十年のあいだ、厳護されてきた法水は、御当代御法主日顕上人猊下に受け継がれておられる。御法主上人の御説法を拝しながら正しく信行に邁進しゆくことが大切なのである。
 その信心と信念の軌跡こそ、観心本尊抄にお説きあそばされた「一念三千を識らざる者には仏・大慈悲を起し五字の内に此の珠を裹み末代幼稚の頸に懸けさしめ給う」との御本仏日蓮大聖人の大慈大悲にかなう信行学のたしかなる歩みであり、大聖人の所遺として、その大道を歩みゆくところに、最大なる栄光の信心と人生があることを確信すべきであろう。
15  ともあれ、戸田先生が、つねに厳しく、覚悟の指導をされた御書の一節は「をなじくは・かりにも法華経のゆへに命をすてよ、つゆを大海にあつらへ・ちりを大地にうづむとをもへ」であった。私もこの御書のとおり、挺身してきたつもりである。次代は、諸君の双肩にすべてがかかっていることを自覚されたい。
 この「法華経のゆへに」とは、諸君にとって最高最大の人生の誉れであり、舞台である。横には宇宙大、縦には万年尽未来際に広がる舞台なのである。妻子ある年齢になっても、この決意だけは失ってはならない。法のため、人のため、平和な世界のために活躍しゆく喜びを、つねにもたなければならない。
 ともかく、学会のためにつくすことが、とりもなおさず、宗門を外護することになり、また広宣流布を推進しゆくことにつうずるのである。
 諸君こそ、未来のすべてを開きゆく使命深き、広布、学会後継の本流であることを決意されたい。最後に、広宣流布の途上にあって、かりに犠牲となる人があったとしても、皆で残された家族を守りあっていける「伸一会」であることを願って、本日の話を終える。

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