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創価大学九期生大会 社会の中に自己の存在価値を

1982.7.16 「広布と人生を語る」第3巻

前後
1  それは二十数年も前のことと記憶する。ある映画を見た。題名も、俳優の名前も忘れたが、鮮烈な印象をもって刻みつけられた一シーンがある。時は、第二次世界大戦のさなか、二等兵として召集された若き学者の物語であった。
 彼は軍隊のなかで、鬼のような上官から、鶏のまねをさせられるという侮辱をうけた。さらに、いつもいためつけられ、非人間的な苦しみの連続であった。この異常な世界のなかにあって、この知性の学者がいつも肌身離さず持っていた本が、モンテーニュの『随想録』であった。
 本を呼んでいるといっては、なぐりつけられ、そのために大切にしていた『随想録』が蹴飛ばされて、裂けてしまった。
 私もこのモンテーニュの『随想録』が非常に好きであった。エマーソンの本などとともに、若きころよりつねに座石の本として親しんでいた。それだけに、この若き学者がかわいそうで仕方がなかったことを、よく覚えている。
2  モンテーニュは、十六世紀のフランスの著名な思想家である。さきほど、外語大のある学生にモンテーニュを知っているかと聞いてみた。その学生は「哲学を専攻する者であれば知っているでしょうが、私はくわしくは知りません」と答えていた。
 彼は、一応、懐疑論、伝統主義の立場にあったが、中庸と寛容と幸福主義を指導原理としており、人間性に深い洞察をくわえ、その影響は近代の科学、哲学、文学の全領域におよんでいるという大思想家である。
 モンテーニュは民衆のためにつくし、すぐれた業績を残している。ヨーロッパにおける偉大なる思想家、哲人といわれる人たちは、多くが民衆側のリーダーとして、新しき道に挑戦し、ときには投獄されるなど、あらゆる苦難の道を歩みながら、その思想と行動によって後世に名を光らせているものだ。モンテーニュ自身も投獄されている。しかし、わが国の学者にはそれが少ないようだが。
 そうした思想家、人生の達人といわれる人たちの言は、非常に深い意味をもっているものだ。
 そこで、モンテーニュの『随想録』(原二郎訳)から、いくつか紹介してみたい。
3  「偉大で崇高なものを判断するには、それと同じ心が要る。そうでないとわれわれ自身の中にある欠陥をそれに付与してしまう。まっすぐな櫂も水の中では曲がって見える。単に物を見るだけではなく、いかに見るかということが大事である」と。
 まさしくこのとおりであると私も思う。また諸君もそうであっていただきたい。
 さらに、次のような言葉もある。
 「心の容器こそが、すべての悪の原因であり、容器に欠陥があるために、外から入って来るものが、すべてその中で腐るのだ」と。
 人間としていかなる境涯の持ち主であるかが大事である。心というものは、不可思議な作用をもつがゆえに、すぐれた一心をつくりあげなければならない。
 まり精神が脳乱している人には、いかに正論を説き、道理正しく論じても、すべて曲折してうけとれるものだ。いかに正理正論を教えても、水がこわれた器にはたまらず、流れてしまうのと同じである。
 さらにモンテーニュの一言がある。
 「われわれを吹きまくるこの混沌たる大衆の風評や意見の中に、一つでもとるに足る道を定めることはできない。こんなに浮動して定めないものを目標にすることはやめようではないか。いつも変わることなく、理性に従ってゆこうではないか」と。
 世間の動向は変転きわまりない。世間の批判、風評を気にしていたならば、偉大な作業は一歩も進まない。
 アメリカの初代大統領であったワシントンも「中傷、誹謗に対する最善の返答、それは黙々と自己の義務を守ることである」と述べている。
 この言葉は、昭和四十五年の言論問題のときにも離したことがあるかもしれない。これも、モンテーニュの言葉に相つうじるものといってよい。
4  人間は自己中心になりがちなものだ。それであっては真実の進歩はない。社会には協調性も必要である。広い視野に立っての歩み方も忘れてはならない。そのうえに立って、みびからが決めた明確な目標、人生観と、その構想実現へのたえざる努力が必要となってくるのである。
 君たちは君たちが決めた信念の道を−−私は仏法者として、また信仰者として、何物にも不動の精神で確たる広布の道を歩んでいくことを決心するものである。
5  話は変わるが、ニュースで五十六年度の少年の検挙、補導数が発表されていた。
 その数は、なんと二十五万二千八百八人になるとあった。そのうち中学生がトップで十一万六千九百七十二人。次いで高校生で六万五千八百十人、小学生も二万二百二十二人におよぶ。そして、内容も凶悪化している。
 原因としては、家庭の教育機能の喪失や、受験中心の学校教育のあり方が深く影を落とし、友人からの誘いが大きく影響しているという。
 私は胸がはりさけるような思いがした。
 このニュースを聞き、教育界の荒廃を憂い、教育の将来のために全力をあげてその解決に努力しなければならないと、いちだんと強く感じたのは私ひとりではないと思う。
 そうしたなかにあって、幸せにも創大をはじめ創価中学・高校、創価小学校での教育が順調に進められており、私は非常にうれしく思っている。かならずや教育界の理想の灯となっていくことと確信するし、また、そうであっていただきたいと願っている。
6  とくに創価大学では、教育面は高松学長を中心とした教授会で検討され、進められている。また経営面は、唐沢理事長を中心とする理事会でなされている。これまでも、私は大学のことは大学側にいっさいまかせ、見守ってきた。しかし、創立者として、精神的援助をおこない、充実した教育環境の整備に力を注いでいくことはとうぜんの責務と思っている。
 これまで創大は、創立十周年までを第一期として進んできた。今後、創立二十周年をめざし、十五周年までを第二期、二十周年までを第三期として進んでいくことになっている。その第二期、第三期の未来構想が決まったようなので、ここで事務当局から発表していただく。
 この九期生の大半は就職し、社会の第一線で活躍するにちがいない。また、大学院等に進む人、海外に雄飛する人、残りは、少々の栄光の留年になるであろう。(大笑い)さきほど若江教授からもお話があったが、諸君の姿はまことにさわやかであり、頼もしいかぎりである。とくに九期生の前途はすばらしいと確信したい。
7  私の願いは、第一に、どこにあってもつねに健康第一であっていただきたいということである。健康こそ、すべての活動の源泉であるからだ。
 第二に、けっして母親に心配をかけてはならないということだ。父親はまだ強い。君たちの希望に燃えて進みゆく人生とともに、両親もまた、希望に燃えて生きていけるようにお願いしたい。
 職場、社会における人間交流を大切にしていくべきである。人間関係は日ましにむずかしくなっている。この人間関係を円滑につくりあげていくことが、職場、社会での勝利の第一歩となることを忘れてはならない。この一歩をたがえると、その職場、社会でも生きづらくなってしまうからだ。
 また、職場に入ったならば、まず十年間は辛抱すべきである。その第一歩の基礎づくりは三年を目標にすべきだと思う。「石の上にも三年」というがあるとおりである。
 初めから、すべての仕事が楽しいといえるものは少ない。すべての成功者は、その苦難のなかにあって、努力のつみかさねによって成功していったことを忘れてはならない。
 その根底を貫くものは“誠実さ”でなければならない。そのうえに立って、あるときは賢く、あるときは不屈の根性で、あるときは耐えながら、一歩一歩とその職場、社会に自分の存在価値を固めていくことが大切であると思う。
8  職場では、往々にして、上司や同僚との人間関係に悩むことがあると思う。自分の努力や業績が認められないことがあるかもしれない。また、病気になったり、事故にあったりして、仕事から逃避したくなることもあるかもしれない。しかし、この現実の社会に生きぬいていくことが、また勝ちぬいていくことが、人生である。
 それは“鯉の滝のぼり”のような繰り返しである。
 どうか、それらの試練にけっして負けず、生命力を燃やしながら挑戦し、勝利の人生を築いていってほしい。後輩のために道を開きゆく一人ひとりであることを願ってやまない。

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