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日蓮大聖人・池田大作

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全国統監部長会 広布支える英知の柱に

1982.7.11 「広布と人生を語る」第3巻

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1  暑いところを遠路はるばる統監部長会へのご参集、心からご苦労さまと申し上げたい。ただいま、広布に日夜活動される皆さま方のご多幸とますますのご健勝を、御本尊にご祈念させていただいた。
 また、これまで、統監で陰の苦労をして、いまは亡き方々の追善の唱題もさせていただいた。
 広布の頭脳ともいうべき皆さま方の苦労は、もっとも地道であり、神経のすり減る作業であることは、私もよく存じ上げているつもりである。組織の第一線で華やかに働いている人に対して、このように陰の陰で広布を支えてくださる方々を、いまこそ私は守り、宣揚しなければならないと思い、出席させていただいた。
 生活もそうであるが、壮大なる広布の歩みも、地道なつみかさねのうえにできあがっていくものである。それがもっとも確実であり、もっとも道理にかなっているからだ。
2  統監部の歴史は古い。戸田先生が広宣流布の推進を開始されたときに始まる。途中において、複雑な統計であるがゆえに、必要がないのではないかといった幹部さえあった。私は、広宣流布のために絶対になくてはならないと主張した。いま、それが見事に実っていることをうれしく思っている。
 ある会館で、地域の会員の氏名を刻んだ銘板を見て、近隣の方々が感想を述べていた。
 「一人ひとりを、これほどまでに大切にし、宣揚している学会はすばらしい」と。
 また他の一人は「これは宗教の、一人ひとりを守ろうとする責務の昇華ですね。
 近年、これほどの弾圧の最中にあって、微動だにしない理由のひとつが、この一点からもわかります」と、もらしていたようである。
3  元来、宗教は、入信者をその信条にもとづいて指導し、社会のうえに立派に顕現させていく責務がある。ところが、一般にみられる宗教とか信仰の世界の現状は、信仰者をそのまま放任し、参詣するもしないも本人の自由としている。しかも、それがまるで信仰の、束縛されない自由であるかのように錯覚している。それでは、宗教の責任がどこにあるかわからない。
 あくまでも入信した一人ひとりをその信仰の真髄に到達させ、人格の完成を社会のなかで立派に証明させていくところに、宗教者としての使命があると思う。
 自由と放縦とはまったく違うのである。信仰者を大切にし、育成し、幸せへの大道に向かわしめる日蓮正宗創価学会の緻密な指導主義の姿は、もっとも正しい信仰の方途であると私は確信したい。
 その必要がなければ、われわれもまことに楽である。信仰者を守り、育成していく使命達成の努力と戦いのなかにこそ、広宣流布は開かれていくことを忘れてはならない。それは、親には子供を一人前の社会人になるまで育てていく責任があるのと同じである。
4  人の言葉は絶対とはいえない、法のみが絶対である。自己中心にして、人をだまそうと思えば、いくらでもだます言辞をはけるものだ。それらの自己中心の視点からの僻見に、崇高なる広布の歩みをゆがめてもならないし、信心の心を揺るがせてもならない。
 どこまでも大御本尊に南無し、妙法への帰命を根本としなければならない。そのうえに立っていくならば、鋭く人を見きわめ、すべてのうそいつわりをおのずと感じとっていけるはずである。
 五陰世間、衆生世間、国土世間も、すべて一念に具備されているというのが、事の一念三千の法門である。これはまことに驚くべき、深い法門である。これを確信しての信心があるときに、広宣流布の具体化は、厳としてなされていくのである。
 他教団が、何の批判も弾圧をうけずして、もはや堕落している現状に対して、日正宗創価学会の未曾有の隆昌は、皆さまの、この事の一念三千の法理への強い信心にたった、緻密な一つひとつのつみかさねの連続があったことに由来していると、私は心から敬意を表したいのだ。
5  皆さま方は、それぞれの仕事を終えてから、つねに数字と取り組み数字を駆使する部門である。相当の体力と神経が消耗されるであろう。来世は、数学の大博士となり、ノーベル賞を受賞するようになるかもしれない。(大笑い) 
 われわれの身近な経済生活のうえでみても、数学の観念が薄らいだときには、生活に狂いが生じてしまうものだ。と同じく、広宣流布推進の骨格をなすべき統監部門の、把握の努力がなくなった場合には、未来への計画もたたず、運営もスムーズにいかない。やがては運動は破綻してしまうといってよい。
 よく戸田先生は、客と会われたときにいわれた。
 「銀行の方々は、金銭の数字を数えている。出版社の方々は、本の部数をつねに念頭においている。私ども日蓮正宗創価学会は、地球上でもっとも尊厳な生命を守り、どれだけの人に妙法を受持せしめ、幸せにしたかということを数えるのである」と。
 日蓮大聖人の大慈大悲と、永遠にして深遠な仏法とを教えゆくことは、最難事であるが、尊厳なる使命なのである。この妙法を受持せしめた人を、生涯にわたって成仏という最高の境涯に至らせるために守りに守り、支えに支えていく努力は、絶対に必要となってくる。それは、その人のためであり、法のため、社会のためでもあるからだ。これが宗教者の責務であると思うのである。
6  日々、私の所には、数多くの手紙が寄せられる。とくに私が勇退した直後には、膨大な量であった。いまだに整理ができないくらいである。しかし、その方々への御礼の気持ちもこめ、全会員のご多幸だけは、ご祈念させていただいている。
 また、外部の学者からも、多くの知人、友人からも、真心こもる書簡をいただいている。そうした手紙の文面のなかには、古今東西の格言や箴言、思想家の言が引用されている場合も多くあった。
 ちょうど本日は、日曜日で、手紙の整理をしていたところでもあり、そのなかからいくつかを拾ってみたい。もちろん、原理的には御書にはすべてふくまれていることであるが、本日は気分転換の意味からも、そのいくつかを紹介させていただきたい。
7  ある学者からの手紙に「野心は失敗の最後の非難所だ」と記されていた。これはイギリスの作家であり詩人のワイルドの言葉である。
 黒い野心家の醜い心を鋭く見ぬいた言である。広布の知性派である皆さま方には、私の申し上げたい意図はご理解いただけると思う。
 また、ある文人から寄せられた手紙には、ドストエフスキーの言葉が引かれていた。彼は、トルストイと並ぶロシアの文豪で、四年間もシベリアに流刑されている。『罪と罰』『カラマーゾフの兄弟』『虐げられた人々』などの代表作は、皆さま方も若き日に親しんだ文学書であると思う。
 その手紙には「あらゆる堕落のなかで、もっとも軽すべきものは−−他人の首にぶらさがることである」との言葉が鮮やかに記されてあった。
8  ある記者からの文には森外の言葉を引いてあった。外国のものばかり紹介しても、書き送ってくださった方に申しわけないので、日本のものも……。(笑い)ご存じのとおり作家であり医者でもあった外に『沈黙の塔』という作品がある。そのなかの一文のように思う。
 「どこの国、いつの世でも、新しい道を歩いて行く人の背後には、必ず反動者の群がいて、を窺っている。そして或る機会に起こって迫害を加える」と。
 真剣なる実践のなき団体には、何の風波も起こらない。未聞の広布の大運動には、反動の嵐があることは、この一文に照らしても明白である。
 このあとに「只口実丈が国により時代によって変わる」とつづけられていた。
9  また、トーマス・ジェファーソンの言葉で励ましてくださった方もいた。ご存じのようにジェファーソンは、アメリカの独立宣言を起草した人であり、第三代米大統領に就任している。私が第三代であるがゆえに、第三代大統領の言葉を引用してくださったのかもしれない。(大笑い) 
 「一つの虚言を吐いた人は、これを維持するために、更に二十の虚言を案出せざるを得ない」
 まさに、そのとおりである。
 さらに、ゲーテの箴言もあった。
 「忘恩は、常に一種の弱点である。私は有為な人間が恩を忘れた例を一度も見たことがない」と。
 私も、昨年六月、ゲーテの生家を訪れ、若き日に親しんだドイツの天才のありし日を偲ぶひとときをもつ機会があった。それだけに、ひとしお心に残る言葉があった。
10  最後に、かさねて皆さま方のご健康とご多幸を祈ってやまない。そして、ますます朝陽の輝きゆくような満々たる福運のご一家であっていただきたい。とともに、地域の英知の灯台であり、柱でもある皆さま方がおられるかぎり、地域の広布がさらに進みゆくことを深く確信するものである。皆さま方の永年の労苦に心から感謝申し上げ、あいさつとさせていただく。

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