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日蓮大聖人・池田大作

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「7・3」記念北海道幹部会 正義は必ず勝つとの誓い

1982.6.27 「広布と人生を語る」第3巻

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1  はるか水平線を眺め、また恩師の古里・厚田村を望む、ここ小樽文化会館に初訪問でき、まことにうれしい。ただいま、御本尊に勤行・唱題申し上げ、皆さま方のますますのご健勝、そしてお子さま方のたくましきご成長、進学等をご祈念させていただいた。
 北海道広布といえば、まず思い起こすのは、「小樽問答」である。そして「夕張炭労問題」である。「小樽問答」は昭和三十年三月十一日。「夕張炭労問題」は、昭和三十二年の六月から七月にかけてであった。私は両方とも深くかかわった。
 小樽問答は、わが日蓮正宗創価学会と、いわゆる日蓮宗の身延派との戦いであった。さきほど、その会場だった小樽市公会堂をなつかしく見てきた。場所こそ違え、そのままの姿で移転されていた。
 もちろん、この問答で、日蓮正宗の正法正義がいかに絶対のものであるかが、如実に証明されたことはいうまでもない。正義は勝ったのだ。また、正義はかならず証明されていくものである。これより、日蓮正宗創価学会が飛躍的に発展をしていったのはとうぜんのことであった。
2  妙法の広布につらなる世界のすべては、後になればなるほど燦然と輝きをますものだ。法難しかり、苦労しかりである。
 四条金吾の名をだれも知らなかった。富木常忍もまた同じである。熱原の三烈士もまた同じであった。いままでだれ人も知らなかったこれらの人人も、いまでは日本のみでなく世界の人々が知るようになっている。いわんろや日蓮大聖人の下種仏法の正法正義を厳格に残された第二祖日興上人の御名も、大聖人の仏法とともに、いやまして輝きわたっているのである。
 いま、私ども庶民の広布への労苦も、月日が経てばたつほど、後世になればなるほど、地域のなかに、広宣流布の歴史のなかに宣揚ていくにちがいない。それは、絶頂期を過ぎれば、時の流れのなかで色あせ忘れ去られていく、世間でいわれる有名とは、まったくちがうのである。
 この小樽問答のキッカケをつくったのも無名の庶民であった。その人の名も、広布の歴史にとどめられ、忘れることのできない人となっている。いま、私どもが、多くの人々に仏法を教え、指導するその功績は、自身の生命のなかに刻まれるとともに、多くの庶民の生命の奥深く残されていくことを無上の誇りとしたい。
3  ともあれ、問答では、日蓮正宗と身延派との正邪ははっきりした。日蓮正宗には三大秘法総在の大御本尊が厳然としてまします。また、法水瀉瓶唯物与仏の血脈が、厳として受け継がれている。一方、身延派は信仰の根本対境たる本尊がさだまっていない。血脈もない。ゆえに勝劣は明確であった。本日お集まりの方々のなかにも、そのときの状況をごらんになった方がおられると思う。(何人かの人が手をあげる)。
 とかく世間というのは宗派の名は知っていても、その宗教の説く根本の教義、修行等をまったく知らない、また知ろうともしない。したがって、学会に対する非難、中傷も、日蓮正宗の正法正義を、また学会が実践している広宣流布の運動も、まったく知らないでなされてきたのである。
 すべての非難が、一部の皮相的な現象をとらえて、それがさも本質的なものであるかのように思わせたり、全体的なものと見せるものであった。なかにはつくり話までされる始末である。いま、御法主上人猊下に師敵対する徒輩等が、また、彼らとくみし、動かしている山崎、原島らが、いかに世間を惑わす論法をもってマスコミ等を動かしたとしても、それはまったく屁理屈であり、眼中におく価値などない。日蓮正宗の根本なる御法主を訴えたという、この一事だけで、もはやいっさいが崩れさったことを物語っている。
4  仏にはかならず出世の本懐がある。これが仏法の定義である。釈尊にとっては二十八品の法華経であり、日蓮大聖人は弘安二年十月十二日の大御本尊の御図顕であられた。その根本の教義は、末法においては、大御本尊を受持、信行させることによって、いっさいの衆生を救おうとされたものである。
 宗教として、批判に耐えうる教義もなく、人々を救う力もなければ、何をかいわんやである。われら地涌の眷属の本懐は広宣流布である。だれがなんといおうとも弘教にある。
5  また、日本人の通念として、古き伝統や権威に対しては“長いものには巻かれろ”式の主義でよしとする、まことに浅はかな傾向がある。時代とともに新しく勃興しようとする活力あるものに不安を感じ、厳しく批判の目で見ようとするものだ。
 それを恐れたのでは、真実の宗教は、いつになっても明快に証明されまい。ここに問答とか、法戦が必要となってくる。また、折伏戦を展開しなければならないゆえんがあるのである。
 この本質も知らず、多くの世間の人々は、宗教に対する無知のため、ただ感情と皮相的な偏見をもち、非難しているにすぎないのである。
6  小樽問答についていえば、その日、学会からは辻副会長と小平芳平氏(当時・教学部長)が登壇した。私が司会であった。戸田先生も館内で厳として見守っておられた。約千人の聴衆のなかには、当時、日蓮正宗の庶務部長であられ、後に総本山第六十六世御法主上人として御登座あそばされた日達上人も入っておられ、鋭く質問をあびせられたのも、いまはまことになつかしい。
 また、総本山から、当時、第六十四世御法主上人であられた日昇上人も、北海道の地に御親教中であられ、この戦いを親しく見守ってくださった。まことに、ありがたいことであった。ともかく、僧俗和合しての勝利であったと私はみる。
 なお、この小樽の地では、今日も日蓮正宗の御僧侶方がまことによくしてくださり、ほんとうに感謝にたえない。これからも小樽は、模範の僧俗和合の前進をお願いしたい。
7  夕張炭労問題では、七月一日に札幌の中島スポーツセンターで、さらに翌二日には夕張で、不当の圧力に対する糾弾の大会をおこなった。この事件の発端は、学会と炭労の双方から参議院選挙に出馬したため、たがいの支持する候補者を応援しようとして起こった問題であった。
 夕張炭労にも学会員が多く、学会推薦の候補者を応援したということから複雑な問題となったようである。当時、炭労は最強といわれる労働組合であった。はたせるかな、組合内の、学会員への圧迫が始まった。そのためわれわれは、信教の自由を守るために、立ち上がらざるをえなかったのである。やがて話もつき、和解の流れへと移っていったと記憶する。いまは炭労も、時代とともに影が薄くなったようである。
 この糾弾の大会での、信心の炎に燃えた北海道の草創の方々の、あの毅然たる姿は、私の脳裏からけっして離れることはないだろう。北海道の幹部はみずからの手でこの問題を打開しようと懸命であった。
 戸田先生は東京におられた。当時、参議院議員であった辻副会長や故北篠会長、故牛田寛青年部長、そして男子部長だった秋谷現会長、中西治雄総務、関西の白木義一郎氏、また竜年光、星野義雄、原田立、黒柳明、大野潔、藤原行正、長田武士、伏木和雄の各氏が来道した。
 東京とのいっさいの連絡は私がとった。心配された戸田先生から、何回となく電話があった。私が「絶対に大丈夫です。ご安心ください」と申し上げると、先生はうれしそうであった。
8  七月二日の夕張大会を終えて、私は札幌に向かった。それは、その年の春四月におこなわれた参院補選(大阪地方区)での選挙違反の容疑で、大阪府警に出頭しなければならなかったからである。私が総指揮者であったからというのだ。
 その夜、札幌の広布開拓の中心者であった、当時の緒方博愛支部長夫妻が、何やかやと心配してくださった。お子さんも多く、緒方家もたいへんのようであった。
 しかし、いつも変わらず、私どもを大切にしてくださった。その好意は終生忘れることはできない。現在では、ご夫妻も福運に満ちて、子供さんたちもまことに立派に成長され、私は心から喜んでいる。
9  翌三日、午前十一時十分発の日航機で私は大阪へ飛んだ。当時は日航もプロペラ機で、羽田経由であった。羽田空港には戸田先生が見送りに来てくださった。激闘の連続の指揮で、戸田先生もまことにお疲れであった。私も疲れていた。先生のお体が弱りはじめていたことを、私はすでに知っていた。乗り継ぎの大阪への便は、午後三時であったと記憶する。その間、小一時間、先生と語りあった。
 空港には、何人かの最高幹部もいっしょであった。先生の姿はまことに峻厳であられた。そのとき先生は「ありのままに何でもいいなさい。私は信じている。私は祈っている」とおっしゃった。そして、ひとこと「もし体の悪いおまえが、牢の中で死ぬようなことがあれば、私もその上で死ぬよ」といわれた。厳粛な雰囲気が部屋中にただよった。私は、このしぼるような先生の言に、絶対に生きのびることを決意した。私もまた、巌窟王のごとく戦いゆくことを深く誓ったのである。
 大阪の空港には、午後五時ごろ到着した。そして途中、夕食をとり、大阪府警に出頭したのである。
10  「七月三日」−−この日は戦時中、あの不当な軍部政府の弾圧によって入獄された戸田先生の出獄の日であった。その日に私が入獄するとは、まことに不思議に思った。これがいわゆる大阪事件である。何か目に見えない策謀の力が動いているのではないかといった人も多くいた。
 大阪の同志の苦労と怒りはいかばかりであったろうか。戸田先生のご心配もいかばかりであったろうか。それは学会再建後における最初の弾圧ともいうべき事件であったからだ。
 て私の次は、戸田先生に手をのばしていこうとしていたようだ。私のいかんによっては、学会に重大な波紋を起こすにちがいなかった。
 ともあれ、大阪事件のさいに、心から心配してくださった同志の方々の名前は、いまもって忘れない。私は、それらの方々を生涯かけて守ることを決意している。
 皆、立派になられ、社会で、また学会の広布の庭で活躍しておられる姿に、感謝の題目を唱えている昨今である。
11  この選挙違反の容疑に端を発した大阪事件の結末は、いうまでもなく無罪であった。この間、私は被告として、四年半の長きにわたり、裁判にかけられた。その間に恩師は逝去されている。
 戸田先生の去をみてとってか、数人の弁護士から判決の一年ほど前に厳しい口調で「あなたは有罪である」といわれた。旧関西本部の会長室であった。私は「絶対にまちがったことはしていない。無罪だ」と激しくいったことを覚えている。
 まことに厳しい背景のなかにあって、もし有罪であるならば会長を辞任しなければならないことになり、今日の広宣流布へのご奉公の流れは、少少変わっていたかもしれない。
 大御本尊の厳正さ、そして大御本尊の使命ある者への御加護をしみじみと感じた瞬間であった。
12  何か事件が起こると、かならず退転者、反逆者が出る。大なり小なり、どこの世界においても、そうであるかもしれない。
 日蓮大聖人御入滅の後、日興上人に師敵対した五老僧がいた。近くは、日達上人の御遷化の後に、御当代御法主日顕上人猊下に師敵対している正信会が出ている。
 在家にあっても、その姿はまた同じである。
 創価学会でも、初代会長の牧口先生が戦時中、治安維持法で逮捕されたときも、多くの人が退転している。戸田先生が亡くなったときも、そうであった。この大阪事件のときも、また同じである。
 信浅く、野心の心をもてる人が、一現象に惑わされて、世間の動向に迎合し、反動の心を起こしていくことは、三千年来の仏法の歴史にも明らかであるといってよい。
 これからの長い広布の潮流にあっても、大法清浄なるがゆえに、黒き卑劣な連中が蠢動することがあるかもしれない。しかし、けっして恐れてはならない。動じてもならない。正義はかならず勝つ−−正信の人には、かならず絶対なる諸天の加護があることを確信していかなければならない。
 いまだ、総じては謗法の世界である。仏と魔は相対立し同居するがゆえに、難のあるはまた必然といってよい。そのときこそ、勇猛心を奮い起こし、強い信力、行力で、はるかな未来をめざしながら敢然と戦っていただきたいのだ。
 社会の動向といもうのは順風のときも、逆風のときもある。人も同じである。そして学会も、また同じである。日蓮大聖人の仏法の信心とはいったい何かということを、身をもって勇敢に体得されんことを祈ってやまない。
13  この小樽の地は、東京の杉並支部と、まことに縁が深かった。その関係で、柏原ヤス氏、故北篠前会長、そして秋谷現会長とも縁が深い。残念ながら北篠前会長は去してしまった。いま、秋谷会長が、北篠前会長の遺志を継ぎ、卑劣な陰謀者と戦っている。ご縁のある皆さま方にも、おおいに声援をお願いしたい。
 北海道の皆さま方が、ますます福運につつまれ、すばらしき人生の大道を歩みゆかれんことを、心から念願し、七月三日を記念しての話とさせていただく。

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