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北海道の功労者、教育部代表者との懇談会… ”水の信心”が真の信心

1982.6.26 「広布と人生を語る」第3巻

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1  私は、戸田第二代会長より信心の指導、人生の指導等、数多くうかがった。私も信心三十五年、さまざまな体験をつむとともに、多くの人の姿を見てきたつもりである。
 人間は、かならず一つか二つの欠点があるものだ。そのため、大きな失敗をしたり、不幸になってしまう場合がある。それをいかに努力して直すか、いかにして修養しながら克服するかとという問題になってくる。
 私どもは、妙法を受持し唱題することによって、おのずからその宿命を打開し、その不幸への傾向生を是正していくことができる。それが、この仏法のすばらしさなのである。
2  少年時代には信心していたが、青年時代になって信心から遠ざかる人もいる。学生時代には信心活動に励むが、社会人になってから社会にのまれて、みずからの信心をやぶってしまう人もいる。その原因は個人差もありさまざまであろうが、ただひとつ共通していえることがある。
 それは、少年時代に、親が、その子の将来を目的としながら深き愛情で信心の善導を考え対応していくか、その反対に、ただ無理やりに信心をさせればいっさいが心配ないと、親の手段として安易に信心を考えているからである。前者は粘り強く納得させているのに対し、後者は納得させないで、感情的になっているのである。
 ともあれ、つねに子らは親の信心の姿を鋭く見ている。また、一日一日の生活を厳しく観察していることを忘れてはならない。親の言葉と行動に大きな落差があった場合は、子供は信心から遠ざかってしまうものだ。
3  少年期の信心については、早くから五座三座の勤行を教えることは、たしかに大切なことである。ただし、学業があり、疲れるときもあり、無理押しに勤行を強いることは、考えるべき場合もあろう。
 すなわち、あるときは、題目三遍でも百遍でも、方便、自我偈でもよいから、持続させていくという配慮が必要であって、それをただ形式のみを強いることによって、かえって御本尊から離してしまうことは、まことに残念なことである。伸びのびと御本尊へ、伸びのびと学業へ、伸びのびとスポーツにという配慮をしながらの善導をお願いしたい。
 子らが大きくなったとき、親のあのこうごうしいほどの御本尊に対する合掌、勤行の姿が胸に刻まれ忘れることができなかったと、述懐するのをよく私は耳にする。親の美しく強き信心の一念は、かならずいかなる子供にもつうじていることを確信していただきたいのだ。
 青年時代、とくに学生時代までは、現実の厳しき社会を知らない。組織のなかで比較的自由に信心活動ができる。しかし、いったん社会に出ると、その現実の厳しさに押し流されて、信心こそ根本であるこということを忘れ、二次的になってしまう場合が多々である。そうではなく、社会に立ち向かっていくいっさいの根本的原動力が信心であることを、繰り返し指導していく必要があると思う。
 また、青年部時代は、一つの目標をもって生きいきと活動していたが、いったん壮年部の世界に入ると、何かいままでの充実感とは大きな差を感じ、信心活動を弱めてしまう人がいる。そうであっては、まことの信仰者とはいえない。
 すべての社会が現象の変化の連続である。青年から壮年になるのも自然のなりゆきである。その壮年の世界に入っても、青年時代の信心をますます深めつつ、現実社会のなかにさらに根をはって弘教していくという地道な努力のなかに、まことの信心があることを忘れてはならない。いわゆる大聖人の仰せの“水の信心”こそが、まことの信心であるということを自覚されたい。
4  創価学会は、妙法を唱え、妙法を弘め、妙法をみずからの生命に深化し、たがいに励ましあっていく団体である。その他のことは、そのための手段といってよい。
 しかし、学会員のなかに、悪い人もいる。学会員をだまし攪乱し、みずからの野心のために利用する人も、いままでもいた。大きな組織であるがゆえに、これからもそういう人が、残念ながら出るかもしれない。厳重に注意されたい。
 あくまでも良識で考え、不自然な言動や不自然な利害を感じとった場合には、絶対にうけいれる必要はないのである。清らかな信心の世界で利害がからむと、かならず信心は濁り、最後は不幸な結末になってしまうものだ。
 なお、私も利用され、名前を使われて迷惑をうけたこともある。学会総体の指導のほかに、特別な例外などないことをご承知願いたいのである。
 これまで退転していった人々の原因を大別してみると、おおまかにいって三つになる。ただし、これも複雑、微妙な人の心の問題であるがゆえに、細かい分析はさておくとする。
 その一は、議員に推薦されなかった、幹部に昇格されなかったということである。
 それでは信心ではなく、野心である。
 二は、組織を利用し、自己の利害のみを中心としてきた人である。また我見強く、幹部とのあいだに怨嫉をつくり、人々から信用がなくなった人たちである。
 三には、信行弱く、つまらぬ縁に紛動され、世間の見栄に流されていく人たちであると考えられる。
 生涯にわたって水の信心をまっとうしている方々は、人間的にも、また家庭的にも、社会的にも、まことに良識のある堅実な人生を歩んでいるものである。
5  私はこの三年間で、数百軒の功労者宅を訪問させていただいた。これからもできるかぎり訪問させていただく決心である。
 そこでいつも思うことは、どのお宅も観念的な信心ではなく、仕事に熱心であり、社会的にも信用の根をはっているという事実だ。そして、かならずといってよいほど、ご一家の母親が清らかな信心をされ、福々しく、立派な方々ばかりであった。母親の信心が強く、しかも心こまやかで優しいご一家は、ご一族が皆、立派に成長しておられる。
6  人生、絶望のときもある。しかし、戸田先生はよくいわれた。
 「人間だれしも絶望的になるときもある。しかし、それに耐え乗りきってしまえば、後になればなんでもないものだ。いわんや妙法を唱えている人は、長い人生のうえからみれば、すべてが変毒為薬される。ゆえに何も心配しないで、信心強盛に生きぬいていくべきだ」と。
 本日は、概括的にお話しさせていただいたが、なんらかの糧となれば幸いである。

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