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日蓮大聖人・池田大作

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諌早池田文化会館落成記念長崎県幹部会 役職にとらわれず信心貫け

1982.5.26 「広布と人生を語る」第3巻

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1  朝の光、夕べの輝きに、静寂な荘厳ささえ感ずる大村湾の、絵のよな光景を眺めながら、ここ長崎・諌早池田文化会館における落成記念幹部会を心から祝福申し上げたい。
 文化会館は、広宣流布の先駆の城である。総本山、そして寺院を外護申し上げる前衛の、人材鍛練、信心錬磨の城である。
 長崎といえば、松尾信人氏を忘れることができない。彼は初代の支部長であった。つづいて谷口是巨氏であり、三代目の中心者が現・梅林県長である。梅林県長のもとに副県長、書記長、婦人部長、青年部長、そして本部長の方々がまことに絶妙のコンビネーションである。そして数万を超える広布の大発展を成し遂げた皆さま方に、私は心から敬意を表したい。
 県下には当初、坂の上に小さい会館が一軒しかなかった。空腹の人は上がれない状態であった。(笑い)いま、草創の人たちが、なつかしげにそのことはを語りぐさにしている。
 日蓮正宗の寺院がふえ、また学会の文化会館がふえることは、とりもなおさず、広宣流布進展の証左といってよい。とともに、皆さま方の家庭のすべてが、地域に根ざした御本尊まします法城であることを忘れず、繁栄の象徴の家々であっていただきたいものだ。
2  松尾さんは当年七十七歳。支部長として懸命に長崎の基礎をつくられ、やがて国会議員となった。いまは引退し、東京で、小さいながらも会社の首脳として、信心に励み、事業に励んでおられる。
 ここで、とくに皆さんに申し上げたいことは、広宣流布の大功労者である松尾さんのたんたんとした水の流れるような信心の姿である。役職にいささかもとらわれず、後輩の成長を心から喜び、かくしゃくとして、いまなお一支部の推進長として、またあるときは大ブロック長の役割もはたされながら、懸命に戦っておられるという事実である。
 その支部の支部長は女婿である。ともあれ、松尾さんは立派な学歴をもち、立派な経歴をもちながらも、信心というものの深さと、信心というものの永遠性を、身をもって示してくれた大切な人であると、私は心から讃嘆している。
3  会長も一人である。理事長も一人である。県長も一人である。青年部長もまた、一人である。男性が役職を重要視する気持ちはわかるが、どんな立場でも、たんたんと己の使命に生きぬく人であってほしい。毀誉褒貶に左右されず、御書に説かれているように八風にもおかされず、成仏の大道を、そして広宣流布の正義の道を堂々と歩みゆく人こそ、真に大聖人より称讃される信仰者であるということを、絶対に見失ってはならないと思う。
 多くの退転者は、この御書に説かれた信心というものを忘れ、増上慢になり、我見をもって推し量り、われ偉しと錯覚して、退転し、のみならずかえってわれわれを誹謗、中傷しているにすぎないのである。まことに哀れであり、人生の敗戦者なのである。
 いかに私どもをおとしいれようと、無量の画策と誹謗をしても、私どもは少しも動じない。それは、不退の信心ある者には、かならずや諸天の加護があり、仏・菩薩の守護があると、事実のうえで知りぬいているからである。
4  信心には復権とか、失脚などという言葉はない。いずれの立場、いずれの境遇にあっても、ただひたすらに不惜身命の信心、死身弘法の信心ある人のみが「善哉善哉」と、日蓮大聖人より、はたまた諸天善神、そして三世十方・菩より、称讃されゆくことを確信していただきたい。
 幹部は、後輩の人々がどのように戦っているかをよく知ってあげることである。
 真剣に、地道に活躍している人々を見つけ、認め、包含し、ほめたたえていくことが、幹部の大切な要件であることを忘れてはならない。
 学歴と学問の深さは違う。また、学歴と信心の深さは違う。学歴のある人を、盲目的に学問のある人と勘違いしてはならない。往々にして、学歴のために増上慢になり、信心を崩してしまう場合があるからだ。
 信心の世界は、どこまでも信心である。そのうえに学問も生かされ、輝いていくのである。
5  誓いをもつ人生は深く、充実がある。覚悟を決めた人ほど強いものはない。『後漢書』に「志有れば事竟に成る」とあるとおりである。
 また、真剣な人ほど、人を感動させるものはない。確信と希望にあふれる指導ほど、人々を感動させ、信心を励まし、自信に満ちみちた人生を歩みゆかせる原動力となるものはない。
 信心の指導は峻厳であっても、春風のような包含力ある人には、人々は安心してついてくるものだ。信心があるからといって、けっして人間性を忘れてはならない。良識をわきまえていかなければならない。礼儀もまた知らなければならない。
 仏教の内容を知識階層すらほとんど知ることのない現代にあっては、そうした私どもの姿にふれて、多くの人が妙法という大法を求めてきていることも事実であるからだ。
6  ともかく、三大秘法の大御本尊の功徳は甚深無量であり、その功徳のいかに広大無辺であるかは、無量義経に、法華経に、観普賢経に、また御書に明々白々と説かれている。
 その絶大なる仏力・法力をいかに顕現するかは、ただ「信」の一字にかかってい
 る。すなわち、信力・行力であることを、再び強く確認しあいたいのである。
 その「信」とは、本門戒壇の大御本尊に、謗法の念慮を捨て、一心に南無したてまつり、さらに、正法正義を強く訴えきっていくことである。
7  先日、梅林県長と語ったさい、話は「隠れキリシタン」のことになった。
 ――当時、彼らは耐えに耐えて、その信仰を貫いていった。そこに新たに赴任した井上筑後守は、肉体的拷問がかえって彼らの勇気と精神力を高める結果に終わったことを見てとり、わざと政策を緩和させ、美衣飽食によってしだいに精神をゆるめ、油断させる方法をとった。すなわち、信心の堕落をねらったわけである。そして、ほっとして信者が気をぬいたところに、急激に弾圧を加えたのである。堕落のなかでの弾圧は、司祭をはじめ多くの信者をたやすく退転させていったという。
 もとより、われわれと根本的に信仰、教義も違うが、弾圧に耐え、その信仰の強さを持続させていくことが、いかにたいへんであるかという点は同じであるかもしれない。
 ここ数年、皆さまに多大なご心配やご迷惑をかけているが、迫害、弾圧にあうたびに、私は、つねに日蓮大聖人御在世当時の御一門に対する法難がしのばれるのである。それに比べれば、私どもに対する迫害など、いまだ小さいと結論せざるをえないのである。
 過去にあって、外道であり、他宗教であっても多くの信仰者たちが、その教義のために敢然と殉教の精神で戦ってきた事実を思うとき、彼ら以上に、われらは日蓮正宗の大信者として、また妙法広布への勇者である学会員として、不退転の欣然たる一生を貫きとおしていくべきだと思うのである。
 古来、とくにわが国においては、宗教は政治権力の枠の中に入れられてきた。その反抗に犯行する教団は弾圧をこうむり、破滅に追いこまれている。この原理は、
 現代でもまた同じであるかもしれない。
 いま、日蓮正宗創価学会が、ここまで妙法広布の根をありとあらゆる地域にはりめぐらし、大きく世界へと開いてきたことは、仏教史上、驚異的な一ページであったといってよい。もはや盤石なる広宣流布の基盤はできあがったと私はみる。
 あとは人材である。人材の流れである。そして、さらなる生きいきとした同志と同志のスクラムである。また、さらなる現実社会への挑戦と勝利への活躍が大切であるといえよう。
8  昨日お見えになったある大病院の院長が「すべてを求めるものは、すべてを失い、
 すべてを捨つるものは、すべてを得る」との意味の言葉をとおして、学会の発展の本質を衝いて語られていた。すなわち「学会はただひたすらに何物をも欲せず、無償で信心に励んでこられたから、これだけの発展をされた」というのである。
 たしかにこの大発展は、全会員が仕事の合間をみながら、無報酬で、御本尊の使徒として、清らかにまた清らかに、強くまた強く、忍耐また忍耐で、懸命に広布に邁進してきた結晶であることはいうまでもない。
 イソップ寓話集にこのような話がある。犬が肉をくわえて川を渡ろうとした。そして水の中に映った自分の影を見て、もっと大きな肉をくわえた別の犬だと錯覚した。犬はその肉を取るために、自分の肉をほうりだして飛びかかった。そして彼は両方の肉とも失ってしまったのである。
 崇高な広宣流布の教団である和合僧の世界を攪乱し、俗悪的利害をもって総本山を、そして学会を牛耳ろうとしてきた退転謗法の僧や退転謗法の俗の姿が、ここに如実に浮かび上がってくるように思うのは私一人ではあるまい。
 汝自身を見つめずして、他の偉大な存在をねたみ、狂い、奪い取ろうとする人は、結局は、このイソップ物語の犬と影の話に等しいといわなければならない。
 『韓詩外伝』に「名を喜ぶ者は必ず怨多し」とある。自分に何の力もなく、また何の功績もなくして、ただ黒き野心をもって偉くなろうとする人は、怨みのみ多く、人生の敗者となっていくのは、とうぜんの理といってよい。
9  今、私たちの心を暗くしているのはフォークランド紛争、中東紛争である。法華経譬喩品に「三界は安きことなし 猶火宅の如し 衆苦充満して甚だ怖畏すべし」と仰せのとおりである。
 イギリスにも多くの仏子がいる。そしてアルゼンチンにもいる。イランにも、イラクにもいる。この一つからみても、絶対に戦争があってはならないし、させてもならない。
 私どもが仏法者として、大御本尊に平和を祈るのはとうぜんのことである。また、政治家でないわれわれは、徐々にでも、国連を理想的に強力にする以外にないと思うのである。その民衆による世界平和へのワンステップとしての国連支援の運動であることをご理解願いたいのである。
 長崎の皆さま方がますます健康であり、長寿であり、安隠であることを祈ってやまない。梅林県長を中心として、僧俗和合の信心の原則をふまえながら、さらに、地域社会に深き信頼の輪を広げてゆかれんことを願って、私のあいさつとさせていただく。

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