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「創価学会の日」記念勤行会 新世紀の広布の山めざして

1982.5.3 「広布と人生を語る」第3巻

前後
1  今年は、五月三日「創価学会の日」を常勝関西の地で迎えることができた。(拍手)東京でも、神奈川でも、名古屋でも、長崎でも待ってくださっていたが、昨年の三月に、私は、和田、西口両副会長と約束をしたので、うかがったしだいである。(拍手)
 ただいま、御本尊に、御宗門の繁栄、そして学会の発展を祈念申し上げた。また、関西の皆さまをはじめ全国の会員の方々の、無事安隠のご多幸を、心から祈念させていただいた。とくに本日は、二十一世紀の舞台で活躍する未来部のなかより選ばれた「新世紀会」の結成の日でもある。メンバー諸君の偉大なる成長も祈念させていただいた。
2  日本には、名城が多い。大阪城、江戸城、名古屋城、姫路城、そして、熊本城、青葉城、稲葉城等々がある。こうした城は、当時の名将たちが、あらゆる智略をもって戦略用に築城したものであろうが、日本の文化と歴史のたたずまいがある。復興されたのもあるし、城址だけのものもあるが、ともかく、「夏草や兵どもが夢のあと」(芭蕉)の名残は、いまもそのままであるといってよい。
 ここで、見られることの一つは、幾百年を経た現代においても、その城のあるところが、中枢の地となっているという事実である。有形の城はいつかは崩れさるであろうが、その歴史の重みは長く残りゆくものだ。
3  戸田先生は、「学会は“人材の城”でいく」と明言された。まさに至言である。
 広宣流布は“流れ”を意味するゆえに、大法を弘めゆく人材が陸続と輩出されなければ、広宣流布はないのである。人材こそ広布の鍵である。すべてにわたる発展も、ここに決まっていくことを知らなければならない。
 ゆえに、戸田先生も人材育成に全力をあげられた。私もまた、それしかないことを知っていた。今日、大難の打ちつづくなかで、悠然と発展しゆく創価学会の力は、この人材をつくっておいたことによるといってよい。他教団には、こうした姿はとうていみられまい。
 妙法を信受したてまつり、広宣流布に活躍しゆく人は、とうぜん“人材の城”の一員である。その人あれば、地域でも職場でも、信心の昇華の姿を証明していけるからである。たとえ妙法を護持していても、社会に、多くの人々に、正法の力を示し証明しきれない人は“人材”とはいえない。
 ともあれ、有形の名城すら幾百年の歴史を経てなお、社会のなかに、また多くの人々の心の中に、生きつづけている。いわんや、永遠の生命の輝きをもった“人材の城”たるわれわれは、生々世々、同志のなかに、後輩のなかに、また仏縁をあたえていく多くの人々の胸中に、広布の城の人なりとの歴史を残していくことはまちがいない。なんとうれしいことか。
4  御本仏日蓮大聖人の御一生は迫害の連続であられた。大仏法を人々にあたえんとされたのに、あだまれ、ねたまれた。それは、末法の逆縁の衆生を救済されんとしての「而強毒之」「折伏逆化」の大慈大悲の御振る舞いに対する、仏法無知の衆生の非道の行為であった。極善の大法にも、それを破壊せんとする極悪の働きがともなうことは、経文に照らして必然のことであった。
 信仰をたもったわれわれをねたむ人は多い。それは、正法を行じゆくところに起きるとうぜんの波なのである。船が進めば立つのと同じように、仏法の道理に照らしてまったく不思議はないのだ。
 ともあれ信心が躍動しているときは、すべてに感謝の心がわき、すがすがしいものだ。ねたみは信心がない人、信心がなくなった場合に出てくるのである。
 ゆえに大法根本、信心根本に生きぬき、ゆえなき迫害に紛動されてはならない。何があっても地涌の菩の眷属として、尊い信心を貫きとおしていくことが、やがては人生の勝利につながっていくのである。
5  かつてトインビー博士との対談のおり、最後に私は、人生の大先輩である博士に「私への忠告があれば」とたずねた。
 その答えは「私は机上の人であり、学問の人間である。実践の人間でない私が、高等仏教をもって世界に実践をしているあなたに忠告などとんでもない。私は実践の人をもっとも尊敬する。実践者に非難、中傷の反動があるのはとうぜんである。
 それらを乗り越え、世界の平和のために、勇敢に仏法を弘めてもらいたい」というものであった。
 “実践”こそが尊いのである。実践のない人は、どんなに仏法を知っているといっても「論語読みの論語知らず」である。“法盗人”になってしまう場合もある。だれ人がいかに非難しようとも、大聖人の仰せどおりの“実践の人”こそ、御本尊から称讃され、三世諸仏の加護があることを確信されたい。
 この“実践”の一点こそ、仏法の真髄なのである。これを避けて、いかに、要領よく振る舞っても、因果の理法は厳しいものである。どうか、きょうお集まりの、
 つねに仏法を実践しておられる皆さまは、悠然とわが人生を飾りぬいていっていただきたいのである。
6  最後に「新世紀会」の諸君もおられるので、“平和”について申し上げたい。
 “平和”は人類の願望である。いかに科学が発達し、いかに政治や経済、文化が発展したとしても、ひとたび戦争になれば、すべてが破滅する。また、戦争ほど残酷なものはない。人間が人間でなくなってしまうからだ。ここに“平和”の重要性があるのである。
 次代を担う若き君たちは、“平和”をいかに達成し維持していくか、この根本課題を胸中深くもちながらの、勉学、成長をお願いしたい。
 なお現実社会における宗教の昇華はおのずから、平和、文化、教育へと向かうものである。われわれには、恒久平和実現への画竜点睛ともいうべき、絶対平和主義の大法である妙法がある。また、平和、反戦への伝統と歴史をもっている。これをどこまでも、持続し、発展させていかなければならないのだ。社会には、売名的、政治的、また一時的な平和論は多いが、生命尊厳の裏づけのない平和論には、恒久平和の達成は望めないからである。
7  遠くは、釈尊も、絶対平和主義の大法を説かれている。また、天台大師も同じである。近くは、日蓮大聖人は、未来万年への絶対平和を築きゆく根本の大法を、お遺しくださったのである。
 その実践者として、戦時中、牧口、戸田両会長は、その大法を奉持し、戦争反対の叫び、ついに法難にあわれた。これこそ、学会の平和運動への尊い歴史なのである。
 これからも恒久にして完全なる平和の実現には、まだまだ多大な時間と精魂をかたむけた実践行動が必要であろう。ゆえに、妙法と信念をたもちつづけていく若き諸君たちが、陸続とつづいていくことが大切になってくるのである。
 真実の平和社会実現こそ、広宣流布であり、そのカギをもっている諸君は、どこまでも勇敢に前進していっていただきたいことを念願してやまない。

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