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第八回転輪会総会 ”真剣”の二字に人間の輝き

1982.5.1 「広布と人生を語る」第3巻

前後
2  戦後、学会本部は西神田にあった。そこが手狭になり、昭和二十七年に会員の賛同を得て、建設資金を募った。そして、その年十二月に、信濃町二五番地に敷地のみ購入したのである。
 しかし、当時、総本山では五重塔の修復がおこなわれることになった。そのため、本部の建設は延期し、総本山の復興、整備を優先させたのである。しかし、いかにも狭く、どううても新本部が必要な状況にあった。やむをえずその土地を売却し、購入したのが、現在の本部の場所にあった建物である。それは、新築するより、既存の建物を購入したほうが早いとの結論に達したからであった。いわゆる“旧本部”のことである。
 その建物は、ある国の大使の公邸であった。昭和二十八年九月四日に、最終的な検分をおこなって、買い取ることが決まった。敷地面積は、二七五坪(九〇七・五平方メートル)、三階建てで、建坪が二〇七坪(六八三・一平方メートル。)昭和十年ごろに建てられた木造モルタル洋館であった。価格は当時の金で一千百五十万円。以来、この本部は九カ年にわたって、学会発展の、広宣流布の拠点となった。
 その間、戸田先生も亡くなり、数多くの広布の思い出を刻んだ会館となったが、学会の急激な発展のため狭くなり、また大勢の人が利用するため二階が危なくなった。そこで、三百万世帯の達成の段階に入ってきたので、新本部の建設をと私が決意して、起工式を昭和三十七年の九月四日におこなった。そして、世界広布への大拠点にとの意義をこめ、全世界の石を埋納し、翌三十八年九月一日に完成したのが、現学会本部である。
3  次に、信濃町の歴史について、少々述べさせていただきたい。
 信濃町は、武蔵野台地の東端にあたり、地震などの災害に強く、関東大震災のさいにも、家屋の倒壊率はわずかに一割内外で、町の人々は下町から逃げてきた被害者の救援に活躍したという記録が残っている。
 また、この地は、昔から小さな谷が切りこんでいて、湧き水が豊富であった。聖教新聞社の北側の若葉公園のところには、昔、大きな池があり、清水がこんこんと涌いていたという。近くには、“桜川”というきれいな川も流れていた。
 また、現在、創価文化会館が立っている所は、かつては“信濃湯”という銭湯であった。この銭湯は、当時、たいへんな評判となっていた。それはたんなる浴場ではなく、昼休や休みの日には、町の集会場になったり、子供や婦人が集まっては紙芝居や民謡・踊りに使うなど、文化的にもいろいろ利用されていた。
 その跡に広宣流布の文化会館が建設されたことに、町の長老の方々も「何か不思議を感ずる」といっておられる。この信濃湯は、昭和三十一年に廃業されたが、その人情味あふれる銭湯の歴史は、信濃町の住民の方方、また町会の人間味豊かな性格を物語っているようである。
4  信濃町の沿革について申し上げると、江戸時代、江戸城に近いため武家地として、大名の屋敷が建てられていた。現在の四谷三丁目から信濃町駅に向かう外苑東通りの東側には、永井信濃守の屋敷があったところから「信濃町」あるいは「信濃原」と呼ばれていた。
 信濃守に任ぜられた永井家は、代々、徳川の譜代大名として幕府からあつい信頼を得ていた。
 初代信濃守の永井尚政は、天正十五年(一五八七年)、総本山にゆかりの深い駿河国(静岡)に生まれた。十四歳の時、初めて徳川家康に謁見し、関が原の陣に出陣し、十六歳で,のちのち第二代将軍秀忠の近習となる。十九歳で信濃守に叙任され、その後、幕府の要職を歴任し、老中も務めた。老中職を退いてからも、江戸城天守閣の普請を助けたり、島原の乱では京都の守護にあたり、京・大阪の諸奉行等にはかって窮民救済をするなど、幕府には欠かせない人物として重用された。なお、このような政治能力にすぐれていただけでなく、茶道や和歌にも長じていたという。
5  この信濃町方面には、現在二つの支部がある。南元支部と信濃町支部である。私の所属は南元支部である。両支部の支部長、婦人部長、また大ブロック幹部の方々も、まことに立派な方であり、真剣に活躍されている。学会本部をかかえているので、少々荷の重い場合もあるようだ。(大笑い)この地に居住する大幹部の多くは、皆遠くに応援に行ってしまい、自分の支部にはあまり出ていないらしい。(大笑い)私は南元支部の支部員であるから、支部長、婦人部長のいうことは、素直に聞いているつもりである。
 この南元町には、元松江藩主の松平家の庭園「修徳園」と呼ばれるすばらしい庭園があったと記録に残っている。
 このあたりは、江戸時代には永井家の下屋敷であったが、明治に入ってからは、松平家のものになった。
 ここには聖徳太子とか豊臣秀吉等にゆかりのある二つの石燈をはじめ、京都にある羅生門の柱礎石や三代将軍家光のお手植えの木などもあり、日本文化の縮図といった趣があったのである。
 戦後、残念なことに、その庭園はなくなってしまったが、『新東京名所図会』(明治三十六年刊)には当時の模様が載っており、それによると、その庭内の一角に非常に大きな銀杏の木がそびえていたとある。
 たしかに、わが家の窓から眺めると、その大木の銀杏は、いまもって残っている。樹齢何百年もたったのであろうか、高さはもはや三分の一ぐらいになっているようにみえる。春になると、見事な新緑の若葉がもえ出で、まさしく“王者の木”そのものであるように思える。風にも、雨にも、雪にも、炎暑にも、つねに厳然としてそびえ立ち、私はいつもその木を見るのが楽しいくらいだ。当時(明治時代)の町の人々も、この銀杏の木が胸に焼きついて離れないと述べている記録さえあるくらいである。
 次にいつもお世話になっている国鉄・信濃町駅について述べたい。ここの中央線は前身を甲武鉄道といい、明治二十一年に設立された。そして、いまの信濃町駅は明治二十七年に完成し、今年で八十八年の歳月を経ることになる。“八とは開く義なり”で、まことに縁起のいい年になっている。明治時代は駅前に茶店があり、たいへん眺めのよい地であったという。
 さきほどの『新東京名所図会』の「信濃町停車場の図」の説明には「此地高燥なるを以て 風景殊に佳なり(中略)遙かに富士 箱根の諸山を望み 四時に愛玩すべし」とあって、春夏秋冬ともに景色のよい場所であるとしるされている。
 信濃町にゆかりの人々は数多くいるが、まことにいい所であったので、政治家、実業家等々の各界の名士が多く住んでいた。まず、牧口初代会長に深い理解を寄せた犬養毅総理大臣、陸軍大将と海軍中将の秋山好古、真之兄弟、首相で海軍大将の斎藤実、詩人の佐藤春夫、また池田勇人元総理も住んでいたし、近辺には滝沢馬琴が晩年、そこで著作をしていたという旧屋敷もあったそうである。
 概略すると、信濃町というのは景勝の地であり、文化の地であり、窮民救済につくした大名がいた等の、まことに不思議な土地柄なのである。こういう歴史を後世に残すため、いま、有志に研究をしてもらっている。地元の町内会の方々、また聖教新聞も協力して、本を残しておきたいと考えている。
6  トインビー博士のモットーは「さあ!働こう」であった。余暇をどう使うも自由であり、バカンスや休養をとるのも自由である。しかし、広布のために、社会のために、一家のために「さあ!きょうも働こう」との生きがいある人生は、持続しなければならない。一生をどれだけ価値ある内容にするかが大切であるからだ。
 「男は真剣になったとき男となる」「男は、真剣になったときに光り輝く」とは、先人の言葉である。
 中途半端な仕事に充実はない。口さきだけの人間は結局、信用されない。仕事であれ、教育であれ、スポーツであれ、万般にわたって、このことは通じる。真実の信仰というものの確率が、いかに大切であるかを忘れてはならない。
 皆さまは、真剣なる仏法のリーダーになっていただきたい。
7  金銭に節度のない人は、生活にもだらしないものだ。その人は信心もまた、そうなってくる。信心の潔い人は、おのずから金銭にも節度を保ち、生活にも襟度があり、立派な人生を生きていくものだ。一事が万事である。これまでも、信心の崩れた人は生活も乱れ、生活の乱れた人が信心を破壊して、退転し反逆していったことは、周知の事実である。
 だれ人たりとも大なり小なり、悩みはかならずあるものだ。ただし、少年のころの悩みは青年になってみるとたいしたものではない。たとえば少年のころに接した池、川、道等は、すべてが大きく心に描かれている。しかし、青年になり壮年となったときに、行って見つめてみると、まことに狭く、まことに小さく見えるものだ。と同じく、青年期の悩みは、壮年期になると、さほどでもない場合が多い。
 つまり、境涯の拡大がいかに重要であかが、これでわかると思う。悩みとの闘いが人生ともいえる。ゆえに、人生はすべからく、すべての悩みを超克していく力をもたなければならない。その最大の境涯を開くためには、正しき信心が必要となってくるのである。
8  現代は、受け身的人生を強いられる社会状況にあるといってよい。テレビをはじめ本や情報の洪水で、動かずして、さまざまなことを得ることができる。それは、文明の進展で喜ばしいようだが、人間の主体性を喪失させる危険性をもっている。
 そこにはほんとうの幸せはない。便利はイコール幸せではなく、便利が即不幸をもたらす場合がある。
 人間として、主体性の確立は欠かせない。それは、人間は人間らしい実相をもたなければならないからだ。そのためにも人間の骨格となる信・行・学の錬磨が大切なのだ。その主体性があってこそ、すべてが生かされることを知っていただきたい。
 法のため、広布のため、そして妻子のため、自身のため、また同志のために、あらゆる方法を講じながら健康維持をお願いしたい。無理や暴飲暴食や不摂生をして大切な体をこわしては絶対にならない。
 子が病であれば、その父の嘆きは大きい。私は病弱であった。戸田先生の、私の体を心配されての思いやりの深さはたいへんなものであったようだ。ただただ、申しわけなく思っている。大切な皆さまが事故を起こしたり、病気になったときの苦しみもよく知っていただきたい。われわれは、広布に立った真実の同志であるからだ。
9  最後に御書を拝読したい。
 「仏法を行ずるは安穏なるべしとこそをもうに・此の法を持つによって大難出来するはしんぬ此の法を邪法なりと誹謗して悪道に堕つべし、此れも不便なり又此れを申さずは仏誓に違する上・一切衆生の怨敵なり大阿鼻地獄疑いなし、いかんがせんとをもひしかども・をもひ切って申し出しぬ」(御書一四六ページ)と。
 この御文をよくよく拝していきたい。
 ともあれ、皆さまの下積みの努力はたいへんなものである。信心なくしてはとうていできるものではない。学会を支えに支えてくださったのは皆さまであると心から感謝申し上げたい。私は、ひたすら皆さまの健康と無事を祈ってやまない。どんな言葉よりも御本尊へ祈ることが、いっさいに通じるからである。
 これからも広布に走りゆく転輪会は、十期、二十期と立派な後輩をつくり、育てていただきたい。そして、その後輩を励まし、見守り、広宣流布の人材の流れをどこまでもつくっていただきたいことをお願いとして、私の話とさせていただく。

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