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日蓮大聖人・池田大作

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第7回文京会総会 「現当二世」の峻厳な信心を

1982.4.26 「広布と人生を語る」第3巻

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1  本日は、栄光の「文京会」の集いは、心から祝福申し上げたい。きのうは、私の故郷・大田の集いがもたれ、きょうは、ともどもに戦ってくださった「文京会」の会合となり、なつかしくうれしい。もっとも親しく広宣流布のためにともに歩んだ同志との集いを、ことのほかうれしいものだ。
 きょう集った方々は、三十年間にわたる法戦に名をつらねた方々である。その皆さんが全国各地から、勇んで集ってくださったその意義はじつに大きく、心より感謝したい。
 ただ、きのうの大田の会合では、平塚一雄さん(元大田長)の姿が見られず、きょうは小菅義男さん(元参事)、寺島義人さん(第六代文京支部長)等々の姿が見られないことが、まことに残念で寂しい。しかし、成住壊空、生老病死は、宇宙の本然のリズムであり、やむをえない。さきほど、御本尊に追善の唱題を皆さまとともにさせていただいた。
2  本日、聖教新聞に連載してきた『忘れ得ぬ同志』が、本として完成し、御宝前にお供えさせていただいた。
 第一部として三十数人の、広布途上に去された方々を連載させていただいたぶんである。これからも第二部、第三部と、時間をみつけ書かせていただく決心である。
 筆をとるにあたって、私はこれらの方々の死の瞬間に光をあててきたつもりである。皆、さすが立派な信心であり、臨終の姿はまことに立派であったという事実である。
 これが何百年も前に亡くなったことを書くのであれば、そこに虚構もできるかもしれない。しかし、大勢の方々が見ている、そのなかでの今際の姿である以上、すべて正確を期すとともに、真実であることは論をまたない。ただ、私は作家でもないし、紙面の都合もあって要約せざるをえなかったことをご了承願いたい。日蓮大聖人の大仏法がいかに偉大であり、かならず一生成仏のかなう信心であるとの、峻厳なる証明をしておきたいというのが、私の気持ちなのである。
3  皆さま方は、長寿であっていただきたい。そして、信・行・学を貫きとおして、人生の見事なる総仕上げを飾っていただきたい。
 これまでいかに功績があり、功労があっても「文証・理証より現証にしかず」との厳しき仏法の法則を身に体しての信心でなければならない。しょせん、一生成仏が成就できるかいなかが、信心の勝負の分岐点である。過去につんだ福徳を、けっして消すことなく、文京時代に戦いぬいたあの気概と栄誉、栄光を、立派に飾りぬいていただきたいのである。
 社会は、休むことなくつねに動いていくものだ。人の心もまた同じである。目先のことにとらわれた信心であってはならない。大聖人は「現当二世」と仰せである。つねに現在から未来をみすえての、確固不動の信心だけは失ってはならない。
 時代がどうあれ、人々がどうあれ、過去の功績がどうあれ、つねに自分自身を律しながら、一生成仏への峻厳な信心をもち、つねに前進していかなければならない。これが文京精神である。
4  戸田先生を、また私をも、たいへん親しく信頼してくださった日達上人のお話を、ひとことさせていただきたい。
 それは、北海道本部が落成し、その入仏式(昭和三十九年十二月)に大導師をたまわったときのことである。まことに寒い日であった。式も終わり、御目通りさせていただいた。
 私は「大講堂の御供養は、私ども信徒に生々世々にわたる英知の功徳をいただける信じます。また、大客殿の御供養は、永遠に一家一族の繁栄につながり、また、これから正本堂を御供養申し上げる功徳は、一生成仏ならびに子孫末代の成仏への大道を開き、福徳あふれる生命となりゆくことができると確信しますが」と申し上げた。日達上人は、ほほえみながら「ありがとう。いい話ですね。そのとおりですね」と仰せくださった。
 さらに私は「学会員は、日夜折伏行に励んでいます。諸天善神の加護はまちがいないことでしょう。拠点を提供してくださる方々のお宅の福運も、いやまして倍増されると考えます。さらに、全国にわたって指導し、活躍される方々は健康となり『更賜寿命』の経文のままに、最高のすばらしき人生を飾ることができると思います」との意味のお話を申し上げた。
 日達上人は「そのとおりです。まことにすばらしい話であり、見事な学会です」と、しみじみとおほめくださったことがなつかしく、忘れることができない。「私は皆さまのことを、日夜祈っています」との、ありがたい御言葉もたまわった。この代々の御法主上人猊下に御奉公していく信心が、創価学会の根本0神なのである。
 ゆえに、皆さま方の広布への活躍は、大御本尊のお心にかなった実践なのである。その功徳と福運は絶対にまちがいないことを、さらに確信していただきたいのだ。
5  学会のなかには「文京会」とか「伸一会」とか、多くのグループができている。
 たしかに選ばれた人のグループではある。大きくいうならば、全人類のなかで地涌の菩の眷属であるわれわれもまた、選ばれた存在といってよい。方便品に「本末究竟等」という文があるが、我見を恐れず使わせていただければ、そのグループを一つの根本として、そのグループに入らなかった人も全部等しいということを申し上げておきたい。
 いかにせん、多数である。特別に訓練をする場合は、どうしてもこのような形をとるしかない。また、こういう大所帯の場合は、核をつくっていくことが、一つの要請となってくるものである。ゆえに、選ばれた人たちは、すべてにわたっての原動力となっていかなければならないことを自覚されたい。
 学会も第五代会長の時代に入った。つまり、安定の時代に入ったわけである。いくら中傷、非難されても、もはや磐石なのである。
 先日、ある識者がいっていたそうだ。
 「いまの、批判されている創価学会の、目先の姿だけを見ていたならば、大きな過ちをおかしてしまうだろう。その信心の力と、世界的に広がりをみせた潮流の本質は、すばらしいものがある。自分は、学会が、さらに偉大なる発展をすると見ぬいている」と。
 たしかに学会は、その機運に完全に乗ったといってよい。
6  ここで、少々思いついたままに申し上げたい。
 組織の論理で、役職にしぜんと権力がつきまとってしまう場合がある。しかし、けっしていばってはならない。いばる人は人々からわれる。人人の心が離れてしまう。あくまでもリーダーは、鋭敏な民衆の心と一体になりながら、誠実に後輩と接し、また誠実に人々を善導し、育成していかなければならない。文京の中心者であった田中さんは、人柄のよい人である。大勢の人が安心してついてきた。
 時代は自由を求めている。そのなかにあって、信心で自分を律しながら、自分を磨き、成長していく日々でなければならない。信心の確信深く、みずからが成長していくところに、人々はしぜんについてくるし、求めてくるし、慕い、信頼してくるのである。
7  また、同志が病気になったり、事故を起こしたり、不慮の災害にあったりした場合など、会員同志の真心からの祈り、真心からの見舞いと応援は、まことに尊く、絶大なものがある。時には親戚、友人以上に献身的ですらある。これほど美しく、これほど尊く、これほどありがたい、心と心の人間連帯の世界がいずこにあろうか。
 ゆえに私どもは、この世界に感謝し、守っていかなければならない。一人ひとりの会員を大切にし、広宣流布という仏道修行を何よりも大切にしていかなければならないのである。
 いざという場合に、心からの守りをしてくださる方が、もっとも大切である。これらの方々は、真剣に御本尊に御祈念し、諸天善神の働きをしてくださる方々である。ゆめゆめ軽んじてはならない。
 幹部は、さわやかでなければいけない。人と接する場合が多いゆえに、つねにさわやかな姿で接していただきたい。
 また幹部は、すべてを知ったつもりになることは禁物である。そこから増上慢になってしまうからである。無限に求道の心をもつことが、御聖訓にかなった信心なのである。
8  最後に、栄光ある「文京会」の皆さま方は、全国各地にあって、それぞれの立場で人材の柱であってほしい。いかに世法を迎合する人が出ようと、世間がどういおうとも、文京時代につちかったあの学会精神を生涯忘れてはならない。それぞれの地域で一人ひとりが信心の灯火となっていただきたい。
 重ねて皆さまのご健闘とご健康を祈り、本日の祝福とさせていただく。

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