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日蓮大聖人・池田大作

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「大田の日」記念の集い 清新の信心で模範の郷土を

1982.4.25 「広布と人生を語る」第3巻

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1  本日は「大田の日」(四月二十九日)を記念しての集いを、心から祝福申し上げたい。わざわざ立川文化会館までご参集くださり、申しわけなく思っている。しかし、御本尊根本に広宣流布をめざす私どもの振る舞いは、すべて自身の福運になると確信することが、信心なのである。
 大田から立川まで遠いと思うかもしれないが、しかしアメリカやアフリカからも、またブラジルからも、多くの人々が総本山に参詣している。また、学会の会館等での研修にも多数参加している。そうした世界のメンバーのことを思えば、まだまだ近いわけである。ともかく、行動したぶんだけ自分の福徳となることを忘れてはならない。
 大田(旧蒲田区もふくまれる)は、私の故郷である。なつかしい人々のお姿も拝見でき、非常にうれしく思う。きょうは、青春時代の故郷の思い出を偲びながら、少々、信心の懇談会という形式で話をさせていただく。
2  “信心”は一生涯、貫きとおしてこそ、真実の信心といえるのである。いくら幹部になり、功徳をうけ、火の燃ゆるがごとき活躍がいちじあったとしても、途中で退する心があっては、まことの信心とはいえない。人生の最終的勝負の総決算は臨終のときにある。大聖人の仏法は、一生成仏の大法であるからである。
3  人間だれしも、故郷に対して深い愛着を感ずるものだ。時代とともに社会がいくら近代化され、画一的になっても、その深き愛着は変わらない。私には大田区以外に親戚はなかった。長野や山梨、秋田、山形、九州などに古里をもっている人たちが、まことにうらやましかった。
 私は大田区に生まれた。小学校四年生までは、糀谷三丁目に、五年生からは糀谷二丁目に移った。その家も、戦時中であり、強制疎開となってしまった。ゆえに、大田区から同じ大田区内の親戚のところに家を建て増して疎開することになった。
 (笑い)だが、入居する寸前、昭和二十年五月の空襲で、焼夷弾をうけ、焼けてしまった。
 大田区の森ケ崎に一軒、家作があったので、戦後は、そこに移った。ともかく大田区には運命的絆に縛られて、それより出られなかったわけである。(笑い)その森ケ崎の家で私は入信した。
 やがて私は、戸田先生のもとに馳せ参じることになった。遠いので大森の新井宿のアパートに移った。これまた大田区内であった。(爆笑)そして結婚して目黒区の三田にいちじ移ったが、再び大田区内の山王町に移り、小林町で生活した。私としては大田区は運命の故郷といってよい。この小林町の家も、環状8号線の拡張により立ち退きとなり、現在の新宿に移った。ともかく私は大田とともに生きてきたわけである。
 当時の大田は、まことに静かであった。緑の林があった。田園があった。赤トンボが飛び、螢も舞っていた。多摩川の流れは水かさもあり、詩的であった。
 「水静かなる江戸川の ながれの岸にうまれいで……」と江戸川を詠った島崎藤村の詩に対して、だれかこの多摩川をうたう詩人がでないものかと思った。夜は、羽田空港のサーチライトが、まことに美しかった。
 その赤トンボはいまは飛行機に変わり、螢は水銀灯に変わり、そして緑の林は団地に変わっていった。緑の田園は工場となり、土の香りの道はアスファルトに変わっていった。しかし、故郷は故郷である。青春時代を生きぬいた大田は、私の因縁深き国土世間として、生涯、忘れることはできない。
4  この大田を中心とした蒲田支部の初代支部長は、小泉現参事会議長であった。戸田先生の会長就任の、昭和二十六年五月三日を期して、折伏大行進が開始された。
 皆、それはそれは真剣であった。しかし、なかなか思うように折伏ができず、どの支部も、月百世帯を超すことができなかった。
 会長就任時の戸田先生の決意は七十五万世帯の達成にあった。「もしできなければ遺骸は灰にして品川の沖に捨てよ」との宣言が、弟子一同、厳しく身にしみてならなかった。
 やがて戸田先生は「大作、そろそろ出番だ」と、私は蒲田の支部幹事として送った。昭和二十七年一月のことである。
 当時の支部幹事は、支部長である小泉現参事会議長を中心に、白木義一郎氏と白木静子さんと私の三人であった。私は折伏の将として立った戸田先生の弟子として、折伏の第一線に深い決意をもって突き進んだ。
 小泉支部長との呼吸は一体であった。全員がほんとうに真剣になり、ついに二月には、当時としては驚異的な二百世帯突破の金字塔を打ち立てたのである。これが大田の伝統となったわけである。
5  当時、蒲田のほか、小岩、鶴見、杉並、足立、向島など十二支部があった。いうなれば、蒲田は横綱の貫録の大支部となった。小岩、鶴見、杉並は張出横綱かもしれない。(笑い)足立、向島なども戦ったが、それぞれ大関であり、小結であり、幕下もいたかもしれない。(笑い)ともかく、月に百世帯の壁が破れずば、先生の宣言もむなしくなる。よく先生は「このままでいけば広宣流布は何千年もかかってしまうだろう」と計算されながら、笑っておられたことがなつかしい。
 ともあれ、個人の信心においても、広布の支部にあっても、ひとつの壁を越え、脱皮するということに、信心の意義があるといえまいか。信心とは、一次元よりすれば、迷妄からの脱皮の推進力であるといえるだろう。
 このころから学会には、折伏を推進する偉大なる広布の波ができたといえる。リズムができあがったのである。私は「小泉支部長を支え、かならず日本一の支部になる」と宣言した。小泉支部長も心から信頼し、守ってくださった。
 ともかく私は、一つの存在が大きく動けば、他の存在も大きく変わっていくとの方式を身をもって証明したつもりである。
 この偉大な伝統ある大田の皆さまは、もう一度おおいなる脱皮をしながら、マンネリと保守化を乗り越えて“清新な信心”で全東京の模範の大田になっていただきたいと申し上げるものである。
6  蒲田の推進を仕上げたあと、私は、戸田先生から第一部隊長の任をうけ、小岩方面に走った。やがて蒲田、小岩の双璧が前進していくのをみられた先生は、次に小さい支部であった文京支部へ私を走らせた。昭和二十八年のことである。
 こうして、大支部も中支部も小支部もすべて組織的に盛り上がりをみせていった。これが戸田先生の構想であり、この構想どおりにすべてが回転していったと私は確信している。
7  当時、会館はまったくなかった。戦後、焼け残った家や安普請の家が拠点であった。拠点として提供してくださった方々はたいへんだったと思う。そのなかにあって、私ども大田の一つの大拠点は、小泉支部長宅であった。夜遅くまで、私どもをお世話してくださった。
 ところで、安普請のために何軒かの家の二階が落ちてしまったり、床が落ちて事故を起こしたことがある。まことに申しわけないことだった。社会的にも新聞やニュースで報道されてしまった。
 そのため、当時から“私どもの力で、社会に迷惑をかけず、会員も安心して集える会館を建設したい”との決意が固まっていった。この思いが今日の会館の建設となったのである。
 ともあれ、大田は獅子のごとき底力をもっている学会草創の原点の地域である。
 広宣流布のすばらしきエネルギーを蓄積した大田である。ゆえに、東京をリードしゆくおおいなる脱皮をしながら“すべてに一番”“すべてに模範”との、さらなる伝統を打ち立てていただきたいものである。
8  すばらしき伝統をもつこの大田の地からも反逆の徒が出たことがある。信心が強盛であるからこそ、魔の眷属が出現するとの仏法の原理のゆえからかもしれない。
 戸田先生の去のあと、かならずなんらかの変化があると私は心配した。はたせるかな、問題を起こした二人が共謀して学会を攪乱した。いままた、大田の地から、宗門、学会を攪乱している連中も同じである。
 しかし、仏法の世界は慈悲の世界である。いくら皆してかばっても、みずからが退転し去っていくのであればやむをえない。おしなべて、そういう徒輩は、みずからに、いいしれぬ欠陥と問題が多くあったことだけは、周知の事実である。ひとつも嘆くことはない。
 それは、五老僧にもみられることである。ご推察申し上げるに、日蓮大聖人も、
 日興上人以外の五老僧の退転していくことは、見ぬいておられたにちがいない。しかし、最大にお守りになり、励まされていらっしゃった。だが、大聖人が御入滅になると、彼らは時代の変化をねらって、日興上人に師敵対してしまっている。
 同じように現在も、日達上人御遷化の後、御当代御法主上人猊下を非難している徒がいる。私は、命をして猊下をお護り申し上げる決心である。彼らは、以前には、総本山が根本であると私どもを叱咤しておきながら、いまは手のひらを返して、みずからがその根本を破壊しているのである。言語道断もはなはだしい。
 私どもは変わらざる信心できたし、これからも変わらざる信心でいくのである。
9  批判は、どこまでも批判である。中傷は、どこまでも中傷である。真実は、どこまでも真実である。盛んに非難している彼らは、職もなく、生活のために学会や私を批判していく以外に食する道がないのである。その真実は、やがてすべて裁判で明らかにされよう。彼らは、それでは困るので、いまのうちにいいたい放題騒ぎながら、生活の糧をそこに求める卑劣なやり方をしているのである。
 ある識者がいった。「学会は不思議な教団である。難があればあるほど大きくなり強くなる。今日までの歴史が、それをよく物語っている。讃嘆したり、油断させたほうが弱まるかもしれない」と。(大笑い)
 ともあれ御書に、難あれば「賢者はよろこび……」と仰せのとおりである。また「難来るを以て安楽と意得可きなり」とも仰せである。
 御聖訓どおりの信心であり、歩みであるところに、学会の発展があったと確信する。ゆえに、これ仏意の団体であり、仏勅の前進であったことを、おたがいに誇りとしたいものだ。
10  大小の協議会について、多くの方から意見があった。
 それは、その中心者が、より多くの人に意見を述べる機会をあたえるときに、皆がさらに自信をもち、喜んで行動しているという事実である。中心者が一人で長時間話し、まるで独演会のようになっているところは、皆が閉口し、沈んでしまう場合が多いということだ。
 また、とくに壮年の方々の意見を反映していくことが大切であると思う。
 ともかく、全員が呼吸を合わせるためへの、中心者の配慮が望ましい。
 どこまでも健康であっていただきたい。幸福になるための信心であり、生活であり、仕事であっていただきたい。また、広宣流布への活動も同じである。
 これからは、不景気の時代へ向かうと推測される。生活面でも足元をしっかり固めながら、微動だにしない信心即生活を強くお願いしたい。
 皆さまのご多幸と大田の発展を心から念願してやまない。そして二〇〇一年五月三日、さらに立宗七百五十年をめざして“すべてに模範の大田”の建設のために“大田、ここにあり”との気概で前進されんことをお願いし、本日の祝福としたい。

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