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日蓮大聖人・池田大作

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関西戸田記念館での懇談会 信心は真実の幸せへの大道

1982.4.19 「広布と人生を語る」第3巻

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1  きょうは、もっとも陰で活躍されている皆さま方と懇談の機会を得て私はうれしい。日ごろ、つれづれに思うことを、つれづれに語らせていただく。こうした少人数での対話を大切にしたいからである。
 この数年来、皆さまには多大なご心配やご迷惑をおかけし、申しわけなく思っている。しかし、ご存じのとおり、御仏智はかりがたしで、日蓮大聖人の仏法をただひたすらに広宣流布していく私どもの信心が、まったく正しかったという証明が厳然となされたわけである。
2  私は、本年で入信満三十五年、これまで広宣流布に挑戦してこられた幾百万の同志とお会いし、激励してきた。しかし、このような立場になってみると、お目にかかった方々はまだまだ少ないと思っている。
 ご存じのとおり、この三十五年間、迫害の連続のなかをただひとすじに、正法流布に走りに走った。一日として安穏の日はなかったといってよい。しかし、妙法に生ききった人には、かならず諸天の加護ありとの御聖訓を、ますます確信する昨今である。
 ゆえに、私は、ただひたすら御本尊に、お目にかかれなかった方々の無事安穏と福運、そして健康であることを祈念している。もったいなくも、代々の御法主上人猊下におかれては、日夜、そして丑寅の勤行においても、私ども信徒をはじめ全人類の幸福と平和を御祈念くださっている。これほどすばらしい宗教の世界がいずこにあろうか、と感動すること、たびたびである。
3  「鳥と虫とはけどもなみだをちず、日蓮は・なかねども・なみだひまなし」との御聖訓は、身に染みて、深い感銘をうけた一節である。これほどまでに全民衆を愛し、大慈大悲をたれたもう仏様がいずこにあろうか。
 「一切衆生の異の苦を受くるはことごとく是れ日蓮一人の苦なるべし」とも仰せになっている。
 「五重の相対」「三重秘伝」「四重の興廃」という宗教批判の原理の結論として、明確に、本因下種仏法である三大秘法総在の南無妙法蓮華経こそ、唯一無上の大法であることは、ご存じのとおりである。日蓮正宗創価学会の教義と主張は、けっして独善的ではない。
 ゆえに、私どもは、仏子として、この大法をいまだ知らざる人々に説き教えるのみ、この世のとうぜんの使命と決意しなければならないのだ。しかもこれは、科学の次元での使命、経済の次元での使命、教育の次元での使命等々を超克した、最極無上の使命であるとの誇りをもっていただきたいのである。
4  私は、ときどきふと思う。私の家は、先祖代々真言宗であった。幼少のころ、よく父親に連れられて、川崎大師や高尾不動に行ったことがある。病弱であった私は、たびたび熱を出したり、病み苦しんだりしたものだ。そのときに、強く引きずられたものが、かつて行った神社仏閣であった。宗教には、目に見えない不可思議な吸引力がある。その後、私は入信して、謗法の恐ろしさ、大聖人の仏法の正しさを知った。
 この私の体験をとおして、願わくは、皆さま方はお子さんとともに、総本山に参詣し、また正宗寺院に参詣して、仏縁のつながりを深くつくっておくことが、いざという時に大切であるということを申し上げておきたい。
 とともに、信心鍛練の会合、すなわち学会の会合に参加して、その会合のもよう、勤行会のもようを生命に刻み込ませることも、どれほど子供の将来にとってと、
 おおいなる支柱となり源泉力となりか計り知れないことを自覚していただきたい。
 そうすれば知らずしらずのうちに、この仏法の種は大きくなっていくものである。
5  財宝ある人、かならずしも幸せの人とはいえない。健康な人、かならずしも幸せの人でもない。だからといって財産はいらないとか、病気でよいというのでは絶対にない。
 では「真実の幸せとは何か」との問いかけに、みずからがみずからに満足しうる回答をあたえてくれるのが、この信心なのである。
 私どもは、たしかなる妙法の、納得のいく体験の力と、深遠な教義の裏づけを知っているがゆえに、いかなる苦難にも、ゆうゆうと耐えぬく力をもっているわけである。ゆえに、日蓮正宗創価学会は、永遠不滅と断言できるのである。
 退転者とは、深く正しい法理にのっとったこの確実なる信行学をしなかった人の謂である。正しき信仰は、真面目な人でなければ永続できない。不真面目であっては、仏道修行ができるわけがない。
 しかも、人の不幸を喜び、人をおとしいれながら、あくせくと生きていく泥沼のような一面もまた社会の現実なのだ。このなかにあって、私どもは、正しい生命観に立った正しい人生を生きぬきたいから信仰するのである。人がなんといおうとそれは自由である。
6  私ども信仰者の世界は、善意の人々の集まりである。人のためにも、社会のためにも、善意が人間性であり、社会人の第一歩である。
 ゆえに、狡猾な人の多き世の中にあって、善意の集団であるわれわれは騙されることもある。侮辱されることもある。裏切られることもある。大聖人の時代もそうであった。釈尊の時代も、天台の時代もそうであった。しかし、因果の理法は厳然たる大宇宙の法則である。長い目からみて、御書に照らして、そうした悪業をなす人には仏罰、法罰は絶対にまちがいないことを確信ていただきたい。
 ともあれ、「一人立てる時に強きものは、真正の勇者なり」という、ある文豪の言葉を皆さまに贈りたい。
7  先日、西ドイツ、イギリス、アメリカ、日本の教育関係者のシンポジウムがあった。なぜ、非行青少年が世界的に蔓延するのが、という論及であったようだ。
 結論するに、一つには、牧師、政治家、教育者、親たちにも、もはや力がなくなったというのである。子供たちを善導していく責任ある主体者にも力がないということは、たいへんな混乱期に入ったものと、私は心配する。
 第二に「何のために生きるのか」という目標をあたえることができないというのだ。人間として育っていく大切な期間に、その目標をあたえることができないのでは、倫理も人生観も確立されるわけがない。暴力に走ることもやむをえないだろう。
 第三に、その結果、青少年たちは、“自分を支えてくれる”ものがなくなったというのだ。それでは、精神的支柱がないということになる。これまたそうであっては、無定見の人生になり、非行化につながることはとうぜんといってよい。
 私どもの仏法、信仰の世界には、その三つが立派にそなわっている。人生の目的を明確に説いた仏法がある。また、生活の源泉でもある。
 御書に「法妙なるが故に人貴し・人貴きが故に所尊しと申すは是なり」と仰せである。
 法のうえで、みずからの人格を高揚しながら、青少年期に明確なる力をあたえることができる。また、そのとおり実践している。これほど、すばらしい人間育成運動、人生の生きがいの運動はない。ゆえに、かならずや多くの識者も民衆も、その大道を求めて模索に模索をかさねていけば、この仏法に到達していくことはまちがいないと、私は確信している。
 どうか、その仏法の究極の実相であり、当体であられる大御本尊に祈り、大確信をもんで、自身の輝く人生の体験をいだきながら、未来への世紀の道を、少しでも大きく開いていただきたいことをお願いしたいのである。
8  他教団は、格好のよい上辺の姿は見せるが、人々を善導しきる活力はもはやない。マスコミ受けする方法は講じても、それなりの真剣さと信念がない。
 私どもには、大御本尊への求道心、広布への情熱と、法のままに実践していく真剣さがある。これ行苦即信心である。そして、生活のなかに、社会のなかに根をはっていくという強い執念がある。そこにのみ、発展と永遠性と、生きいきとした生きがいの人生の輝きがある。その日々の活躍とともに信仰の昇華として、多くの人を感動させることができるのである。
 創価学会が法難、迫害の相次ぐなかにあっても、これほどの大発展をなしとげたのは、そこに由来するのである。
 他の教団には、その宗教の法のままに戦っていくという信念がないゆえに、少しも難がない。少しの難もなき宗教はもはや形骸化しているのであり、人々を納得させられないし、まして救済していく力などない。これは、これまでも多くの識者の鋭く見ぬいているところである。
 キリスト教もなかなか根をはることのできなかった地域にも、大勢の学会員がいるのを見て、驚いた識者がいた。そして前代未聞の宗教運動ここにありとたたえていた。このとき私は、日蓮大聖人のお喜びは、いかばかりであろうかと思ったものである。
9  戸田第二代会長は、会長になりたくなくて逃げまわっておられたときがあった。
 のちに「これは、しょせん、わがままであった」とよく述懐しておられた。しかし、今世の宿命といおうか、宿習といおうか、結局、会長となり、大法弘通に立ち上がられた。人には、仏法の光に照らされての、それぞれの使命があるものだ。私もまた同じであった。
 仏法の世界は作為や方法で決まるものではない。すべて、御仏智である。皆さまもまた、その立場その立場で、御仏智を確信しながら、成仏の大道を歩んでいただきたいのである。
 会長職がどれほど厳しく、たいへんであるかというとこもわきまえず、簡単に会長にでもなろうとねらった人は、すべておかしくなっている。だれ人からも信用されていないのに、身のほど知らずもはなはだしい。そんな甘ったれの門下をつくってしまったことに深い反省をしたものである。
 船長が一人だけで、機関士等がいなければ、船舶は動かない。機長がいても、整備士等がいなくては、航空機の安全を保障できない。広宣流布の世界もまた同じである。多くの人が、御本尊のもとに平等に、異体同心で広宣流布の前進をしていくのである。
 仏法の世界は、だれが偉いとか、だれが偉くないとかという次元のものではない。信心が強盛かどうかである。人をうらやむ必要もない。人を軽んずることもあってはならない。仏法は平等大から出発するのである。
10  御法主上人猊下は、僧俗和合を御指南されている。もはや信心なき僧も、信心なき俗も去った。いまこそ、御法主上人の仰せのとおり、万代への僧俗和合が理想的にできうる時代に入ったと思う。心して、僧俗和合を私どもは強く徹底し、推進し、もって他教団から羨望される前進を、いま再び開始しなければならない。
 その証明の第一歩が、宗祖日蓮大聖人第七百御遠忌の二百五十万信徒の総登山であった。これこそ仏教史上初の大壮挙であったことを喜びあうとともに、いっそうの秩序ある前進をしてまいりたいものである。
11  病める人には、あたたかく見守ってあげていただきたい。疲れた人には、深い慈愛の理解をお願いしたい。生活苦と戦っている人には勇気ある激励をお願いしたい。信心弱き人には、忍耐をもって希望をあたえていただきたい。私どもは、“仏勅の戦士”なのである。ゆえに、凛々しく何ものをも恐れず、人々のために働こう。
 また、私どもの世界は、少しも見栄をはる必要はない。また、あってもならない。仏法に説く「無作」、すなわち働かさず、つくろわず、そのままの姿でいっさいよいのである。
 虚栄の人は虚栄で滅び、人気で生きている人は、人気が消え去るとともに滅びる。傲慢の人は傲慢に倒れ、策の人は策で滅びていくものである。営々と社会で正直に、地道に活躍する皆さまに勝利と栄光あれと私は祈りたい。
12  御書に「過去現在の末法の法華経の行者を軽賤する王臣万民始めは事なきやうにて終にほろびざるは候はず」と仰せである。
 庶民は愚のようにみえて、これほどの賢者はいない。政治の裏表も、経済のからくりも、すべて見ぬいているのが庶民の知恵である。いくら偉そうに庶民を侮辱しても、反対に、心の中でこの識者を侮辱しているのが庶民である。
 庶民はあまりにもいじらしく、そしてたくましく、正直である。また、複雑なからくりを知らなくても、現実を生きぬいてきた知恵で、すべてを肌で感じとってしまうものである。これからも、一人ひとりの庶民にたしかなる人生の目的と、所願満足を獲得できる大法を、勇んで教えていく努力をお願いしたい。
 皆さまのご多幸とご健康を、心からお祈り申し上げ、本日の懇談を終わらせていただく。

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