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日蓮大聖人・池田大作

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金城会、波涛会合同総会 生涯”水の信心”忘るを

1982.3.28 「広布と人生を語る」第3巻

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1  第五回金城会総会ならびに第一回波濤会総会をお祝い申し上げる。また、全国から、遠いところ“ご苦労さま”と申し上げたい。ただいま御本尊に勤行・唱題し、皆さまのご無事とご活躍をご祈念させていただいた。
 あるときは早朝、あるときは真夜中、そしてあるときは寒風のなか、また炎熱の日に、陰に陽に総本山をお守りくださる金城会の方々に、心から感謝申し上げたい。さらに、御法主上人猊下を陰ながらたびたび外護してくださったことに対しても、深く御礼申し上げる。
2  よく辻副会長が、牧口先生の言葉を引かれて指導している。
 「三種の人間がある。−−居てもらたいたい人。居ても居なくても、どちらでもよい人。居ては困る人。家庭でも職場でも、居てもらいたい人にならなくてはいけない」と。
 この道理は、どの団体にあっても、教団にあっても、社会にあっても同じであろう。広宣流布に向かう日蓮正宗創価学会にあっても、また同じである。
 近年、御宗門においても、御法主上人猊下に師敵対する徒輩がでた。彼らは擯斥された。愚見するに、それは、富士の清流をますます浄化していくにちがいない。
 学会においても、何人かの退転者がでた。すでに去っていったが、これも現実からみるならば、このことによってむしろよりさわやかになり、すべてが順調となってきている。信心の世界は、長くみなければわからないものだ。
3  きょう参加の方々は、広布のために「居てもらいたい人」と信じたい。永年のあいだ冥の照覧を信じて、黙々と戦ってこられた方々である。また、全国的に立派な幹部となって成長し活躍されていることもうかがっている。いうなれば、金城会は、校舎なき「信心の修行大学」「広布の人材育成大学」といえる。これからも、日蓮正宗創価学会をお守り願いたい。
 金城という言葉は、まことにロマンがある。少年のころ読んだ「ガラスの山のてっぺんに 金のお城がありました」と、その金の城を中心とした戦いの場面を思い起こす。どうか金城会の諸君は、生命のなかの金の城を輝かせながら、広布のロマンに生きる一生であっていただきたい。
4  日蓮大聖人の仏法は厳格で厳しい。この富士の清流は第二祖日興上人、第三祖日目上人、そして現六十七世御法主上人猊下までの御歴代上人方によって厳然と護持されてきた。そこに貫かれてきたのは「謗法厳誡」である。他宗教にはまったくみられないものだ。この謗法厳誡の信心が、私どもの信心である。
 いかに時代が変わろうが、社会が変動しようが、この根本精神だけは、絶対に失ってはならない。その峻厳な謗法厳誡の戦をしていくがゆえに、成仏ができるのである。正法に妥協はない。
 遠くは五老僧が日興上人に師敵対した。いかに大聖人門下として功労があっても、最後に退転したならば、厳しき原理に照らして悪なのである。
 と同様に、われわれの場合も、過去にいかなる功績があったとしても、退転し、謗法者になれば、これまでつんできた尊い福徳をすべて消してしまう。のみならず、悪因悪果となり堕落してしまうのである。
5  ここで大事なことは「水の信心」を貫きとおしていくことである。一時の活躍をみせる「火の信心」であってはならない。その信心とは、本門戒壇の大御本尊を信ずることである。総本山を中心とすることが根本であり、御法主上人猊下お一人が仏法の師でいらっしゃるのだ。
 人生の長き信心の道にあって、いかなる苦難があろうとも、心して「水の信心」ということを深く思索し、また一生をかけて体得していってもらいたい。
 社会人として、これからもさまざまな苦労があるかと思う。長く信心をしていても、行き詰まることもあるにちがいない。そのときに信心が薄れて、組織から離れてしまう人がままあるものだ。そうであっては絶対にならない。そのときこそ、宿命打開のチャンスだからである。
 御書にも「始より終りまでいよいよ信心をいたすべし・さなくして後悔やあらんずらん、たとえば鎌倉より京へは十二日の道なり、それを十一日余り歩をはこびて今一日に成りて歩をさしをきては何として都の月をば詠め候べき」と仰せのとおりである。
6  学会から去って、さまざまなマスコミを利用し、批判している人たちがいる。その人たちはすべて、金銭問題をおこし、組織を利用し、善意の同志のなかにいられなくなった敗者なのである。かれらは卑劣にも、自分の非をかくし、つくり話をデッチあげ、世間を惑わしているのである。
 やがて事の真相は明確になっていくがゆえに、ひとつも騒ぐ必要はない。魔というものは、正法の世界を攪乱するものである。この原理を知れば、何ものも恐れることはないのである。
7  信心は魔との戦いである。正法は謗法との戦いである。そこにのみ一生成仏の原理があるのだ。その戦いを恐れては信心が破壊されてしまう。魔との戦闘こそ、まことの信心なのである。
 ともあれ、法華経に六難九易が説かれているように、いくらわれわれが用心し、注意しても、広布と信心を妨げる魔の所作は絶対にさけられないものである。それが魔の実体なのだ。ゆえに、強盛な信力、行力で最後までそれらと戦っていくべきなのである。
8  私どもは組織のみをとおして、指示しているだけではいけない。人は賢いものだ。
 そういう人は、最終的にはわれてしまう。一人の人を広布の人材に、この一人の信心を向上させようと、事実のうえでよく面倒をみている人は慕われていくものだ。
 私も永年のあいだ多くの人をみてきたが、信心のうえに立って黙々と面倒をよくみた人は、皆から尊敬され、慕われているという実感を強くしている。
 広布のためへの真剣な運営会議等々でふざけのある人は、人々から信用されなくなる。皆が、その人の言動に不信をいだいてしまう。よくよく注意されたい。「陣中に戯言なし」でいくべきである。
9  波濤会の方々のご無事を祈ってやまない。また、本日は航海中の方々も多いと聞いているが、くれぐれもよろしくお伝え願いたい。
 私は、永年のあいだ病弱であった。だが、ひとたび決めたこの道を十九歳で歩み始めた。そのとき「荒れ狂う怒濤に向かいて撓まぬは、日の本背負う若人なりけり」と決意した。ゆえに、その決意どおり、あらゆる中傷、批判の怒濤があっても恐れないのである。いまは、日本のみならず世界にも、後輩のために大切な正法流布の道を拓かんと奔走しているのである。「怒濤会」では、荒々しい名前なので、(大笑い)「波濤会」となったと記憶している。
 また金城会の方々は年長になっても、第十期、第十五期と、あとに続く後輩たちが成長していく姿を、ほほえみながら見守っていける先輩であっていただきたい。
 きょう参加の方々の、ますますのご活躍と成長を祈ってあいさつとさせていただく。

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