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三月度東京支部長会 納得、確信、安心感の指導を

1982.3.11 「広布と人生を語る」第3巻

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1  きょうは秋谷会長が所用のため出席できず、会長や副会長から再三、出席願いたいとの要望があり、おじゃましたしだいである。
 一月、二月、三月とめざましき折伏と聖教新聞の講読推進ができ、心からご苦労さまと申し上げたい。私は、皆さまのご活躍には、ほんとうに頭が下がる思いである。
 夏目漱石の小説に、このような有名な文がある。
 「山路を登りながら、こう考えた。智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。
 住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生まれて、画ができる」(『草枕』)
 明治ののどかな時代であってもこのように“この社会は住みにくい”と漱石はいっている。いわんや現代社会は、当時から比べてみれば何百倍、何千倍も複雑になり、なお住みにくい。しかし、いつの時代でも、どの場所でも、結局は、十界三千の生命である以上、苦しみというものは同じであるのかもしれない。
2  大聖人の仏法は、ありがたいことに、いつの時代でも、いかなる場所でも、大御本尊を拝したてまつり、妙法を唱えるところが、もはや霊鷲山なのである。その場で、その身で、不改本位の成仏ができるのである。生命の宮殿に入ることができる。また、御本尊即宝塔のなかに以信得入できるのである。
 ますます心身症が多くなるといわれる現代社会にあって、信心が絶対に不可欠の条件となってきたと確信したい。
 漱石がこの文のなかでいわんとすることは、いわゆる“のどかさ”を求めてのことにちがいない。その“のどかさ”も、宿命的な、社会的な、生活的な、さまざまな縁によって味わえることが少なくなってしまった。
 しかし、私たちは、よきにつけ、悪しきにつけ、御本尊の前に端座するとき“ホッ”とする。また、いかなる複雑な悩みがあったとしても、その悩みにうちひしがれるのでなく、御本尊に唱題し、乗り越えていけるという強さがある。
3  だれ人たりとも、心の中は不安定で、苦しみが存在しているものだ。幸せそうに見えても、心の奥では何かの苦しみと闘っているものである。
 それを闘いきれず、ある人はあきらめ流されている。われわれは真正面から信心によって乗りきっているのである。
 たしかに、不惜身命、死身弘法という根本精神、また「すこしもたゆむ心あらば魔たよりをうべし」との御文等々、仏法は厳しい。しかし、それでもなお御本尊への唱題、広布への活動のなかに、いいしれぬ妙法の無限の喜びをつねに味わっていけるところにこそ、真の安住の境地があることを自覚されたい。
4  広宣流布の推進にあって、その基本単位は支部である。
 支部長、婦人部長は、支部員の方々と会ったとき、また指導をうけにきたときに、かならず“ホッ”としたといわれる人であっていただきたいのだ。いな、全幹部がそうでなければならない。本部の幹部も、支部長、婦人部長も、同じく広布の指導者である。なんら変わりはない。心して大切な支部員を“ホッ”とさせてあげられる指導をお願いしたい。
 また、その人に確信を与え、納得させる力がなければリーダーとはいえない。
 会合、指導にあたっては、御本尊にまず祈り、その智で、人々が安心して楽しくついていけるように配慮していただきたい。
 話も上手に、参加した人たちが満足して帰るようにしなければならない。幹部がいつも話が同じであり、魅力がないようではあきられてしまう。新聞を活用するもよし、その他の本を活用するもよし、いろいろ工夫も必要な時代ではないかと思う。
 ともかく、御本尊にまず祈ることだ。仕事等で多忙のなか、まことにたいへんであろうと思うが、成長への努力をお願いしたい。
5  支部長が真面目であり、婦人部長が明るい支部は、おおいなる前進をしている。
 なお、大きい支部、小さい支部もあるが、ときには大きい支部が小さい支部を応援しながら交流することも、一つの知恵ではないだろうか。
 そうした工夫も、今後の発展のための一つのポイントになると思う。
 先日、あるテレビ番組を見た。それは、三人の非行少年の話であった。いまは、二人は大学生、一人は社会人となっている。
 その三人のいうには、少年院に入ったときいちばん胸にこたえたのは母親との面会であった。母親の心を感じたときに、絶対、更生しようと決意したと語っていた。
 母親は“一家の太陽”でなければならない。どうかお母さん方は明るくあっていただきたい。また、お母さんがつねに明るく生きられるよう、ご主人も、子供たちも守ってあげてほしい。また、お母さん方は、子等からも尊敬されるようであってほしい。
6  仏法に成仏の相がもっとも大切なことはとうぜんである。しかし、かつて私は、戸田先生に、熱原の三烈士の刑死、小松原の法難での鏡忍房らの死について質問したことがあった。
 それに対し、先生は「妙法のための死であるならば、それは、たとえば眠ったとき、はじめちょっと何か夢をみたが、あとはぐっすり休めるようなものであるから、成仏はまちがいない」という意味のことを話されたことがある。
 と同じように、純真にして強盛に信心しぬいた人が、かりに交通事故等で亡くなられたとしても、その意義は同じであると考えたい。ただし、誹謗、退転等の人の場合は、別である。
7  広布につらなる“すべての行動は自分のため”ととらえるのが信心であり、そこに福徳がつまれていくことを忘れてはならない。それに反し、打算のみを追っての行為は福徳にはならない。
 また、協議会等にあって、前進のために意見を述べあうのはとうぜんのことであるが、信心の成長を忘れ、感情や愚癡の文句になることは、福運を消してしまうゆえに、禁物である。
 ともあれ、皆さま方のご健康とご多幸を心からお祈り申し上げたい。

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