Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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「荒川の日」記念大会 使命ある人は尊く強い

1982.2.21 「広布と人生を語る」第3巻

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2  一言にしていうならば、信心は確信である。それは絶対ともいうべき強い崇高な信念といってよい。ゆえに、大御本尊の仏力・法力をば、信力・行力をもってわきいだしたすばらしき生命力をもって、人々を勇気づけていただきたい。なお、複雑な問題にあって、みずからが解決できない場合は、遠慮なく先輩に指導をうけさせることもとうぜんである。
 ただ大事なことは、粘り強くその人の心をひらき、妙法の大良薬を教え、服させていくという指導を、みずからにとってもこれがまた大事な仏道修行であると心得て、やり抜いていくことである。
3  幹部であっても悩みはある。すこしも恥ではない。すべて十界互具の生命であり、過去世より未来世への旅路の道程であるからである。
 “宿命”もあろう。“宿業”もあろう。社会の一員としてのさまざまな制約もあろう。ちょっとした病気などみずからの不摂生もあろう−−。悩み、苦しみとの対決のすべてが、人間修行ととれるかもしれない。これこそ仏道修行の課題である。
 この自己の宿命と対決しながら、唱題し、活動し、また努力し、もって福徳を日ましにつみゆくことを確信しつつ、現実社会での黄金の坂を上っていくのがわれわれの人生なのである。
 大聖人御一門の御一生もまた、一つの次元からみるならば悩みの連続であった。
 しかし、この悩みすなわち煩悩といっても、信心によって、すべて菩提に転じていけるのである。ゆえに、別の次元からみれば、これほど幸せな人生はないといえよう。
4  善き友人をもつことはこの世の灯火である。悪しき友人をもつことはこの世の暗闇である。仏法では前者を善知識といい、後者を悪知識という。
 日蓮正宗創価学会の世界は、御法主上人猊下の御許に、善知識の和合体なのである。そして、悪知識と戦うのである。
 透徹した信心の善知識が一人でも多くなっていくところに、広宣流布の炎はいやまして、曠野に燃え広がっていくことを忘れてはならない。
 御書に「後世を願はん人は一切の悪縁を恐るべし一切の悪縁よりは悪知識を・をそるべし」と。
 また「悪知識と申すは甘くかたらひいつわび言をたくみにして愚癡の人の心を取つて善心を破るといふ事なり」と仰せである。
 悪友に親近せずとは、仏法の戒めである。悪友を戒め、呵責し、正法正義の大道を破壊されることのないよう十分に注意しながら、異体を同心とした確固たる組織の構築をお願いしたい。
5  社会との交流を不自然にしては絶対にならない。「一切法是仏法」とも大聖人は仰せである。生活、職場、社会等々にあって、まことにしぜんに融合していく仏法者の振る舞いのなかにこそ、広宣流布という開拓が見いだされることを自覚しなければならない。
 信心をしたからといって非常識、反社会的行為、組織利用、独善等は、許されるものではない。それは、真実の仏法のあり方でもなく、真実の信心のあり方でもない。仏法は社会のなかにしぜんに流れていく“大法”であり、それはまた、社会を、人々を指向し、つつんでいく法則であることを知らなければならない。
6  無報酬で、また多忙な日常のなかにあって、時間をみつけながら、あらゆる悩みをかかえた人々に指導をすることは、まことにたいへんなことである。しかし、それだけ多くの人々に仏法を説き、尊き生命と人生の問題にともに取り組み、解決に導くことほど、崇高な労作業はない。
 御書に説かれるままに、法のため、人のため、社会のためにつくしていく、まことの大聖人のおつかいとしての誇りは、これ以上のものはないと確信されたい。因果の理法で、その功徳は、生々世々にわたって、自身を飾り守っていくことは、法華経の文に照らして、明白なのである。
 信心のあり方のひとつの大事な点は、いわゆる“わがまま”との戦いといってよい。わがままな修行というものは、どこの世界にもありえない。また信心は、人間のもっとも根本的な強さをつくるためのものである。ゆえに、自身を堕落させゆく弱さや自分の境涯に対する不平不満をつきぬけていく、御本尊に対する鋭い祈りがなくてはならない。
 いかなる場であれ、常住の環境にあって、常楽にして我浄の強き生きる姿勢を貫くなかに、勝利と栄光がつねに輝きそなわってくることを知らなければならない。
7  さまざまな人生模様がある。そのなかで使命感に燃えた人ほど、強く凛凛しいものはない。使命は人からあたえられるものではなく、しょせんは、自分で自覚するものである。みずからの使命を自分で決め、自分で雄雄しく歩んでいく人は、ふつうの人の人生の何倍も凝縮した、深くして充実した人生を歩むことができる。
 広宣流布をめざし、総本山を外護したてまつり、自己のこの世の使命をはたしながら、所願満足していこうとする人は、大御本尊の光明に照らされ、最極の人間道を歩んでいる人といえるであろう。人生はただ生きていけばよいのではなくして、いかに生きるかが大事なのである。
8  価値を知らないということは不幸なことである。価値を創造することができるのは、人間の英知であり、知恵である。見方はいろいろあるが、アメリカの西部開拓史の一つの逸話として知られているように、インディアンは金塊を見つけたが、銃弾か装飾に使えるぐらいにしか思っていなかった。金がいかに大きい経済的価値をもっているかは知らなかったのだ。
 いま、妙法という大法――三大秘法総在の大御本尊の、尊極の価値をほとんどの人が知らない。しかし、知らないからといって、その実体にその価値がないということとは違うのである。御本尊の仏力・法力の如意宝珠の価値を知り現していけるのが信力・行力であることを自覚し、強き信行で最高の人生を飾っていただきたい。

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