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日蓮大聖人・池田大作

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茨城文化会館落成記念勤行会 満月のごとき信心と生活を

1982.2.9 「広布と人生を語る」第3巻

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1  最初に御書の一節を拝したい。
 「仏法を信じて今度生死をはなるる人のすこし心のゆるなるをすすめむがために疫病を仏のあたへ給うはげます心なり・すすむる心なり
 「日蓮が諸難について御とぶらひ今に・はじめざる志ありがたく候、法華経の行者として・かかる大難にあひ候は・くやしくおもひ候はず、いかほど生をうけ死にあひ候とも是ほどの果報の生死は候はじ
2  昨夜と今夜はまことに見事な美しい満月であった。大聖人の法門は、円融円満の満月のごとき仏法である。その究極の法体は、宇宙法界の功徳聚の大御本尊である。その完全無欠なる実相の大法である大御本尊に、日夜唱題し、行ずるわれわれもまた円満でなければならない。
 すなわち、人格にあっても、経済にあっても、社会にあっても、生活にあっても、常識豊かに、健康で、だれからもまことに円満なすばらしい人である、といわれるようでなければならない。
 大聖人の仏法の信心は、わが身をとおし、生活をとおし、社会をとおして、実証を示していく実践でなくてはならない。ここに、大聖人の仏法と他の宗教との違いがあることを知らなければならない。
 たとえば、病気の人には、大聖人は御書をとおし、次のように仰せである。信心がおろそかになったときに、病気の姿をあらわさせるのである。より信心を深め、生命を蘇生させていくためにその病気があると思いなさい、と。この仰せのごとく、心して少々の病に負けず、いっそう信心を奮い起こして、さらに力強い人生を歩んでいってほしい。
3  ともかく身は軽く法は重い。この大法に信順していくならば、私どもは、永遠にわたる成仏という「我」、すなわち幸福への生命の常住を築くことができるのである。したがって多少の苦悩、多少の経済苦等に負けることなく、ひたすら信行の精進をしていくことこそ、すべてにわたる栄光の人生の源泉となっていくことを忘れてはならない。
 仏の別号を「世雄」という。私どもは、大聖人の門下であり、信徒である。ゆえに、社会にあって、力ある人間とならなければならない。
 また、「能忍」ともいう。大聖人の御一生の御法難をみるならば、私どもに対する弾圧などまことに小さい。たとえ無量の難ありとも、微動だにしない信仰を貫いてこそ、大聖人の門下であり信徒といえることを、誇りをもって自覚されたい。
4  ある方がしみじみと語っていた。その方は、病床に臥し、正座して勤行・唱題ができなくなったことを嘆きに嘆いた。「正座して御本尊に向かえることがどれほどうれしいかを、いま、実感した」と。
 健康であるうちに、悔いなき信心、勤行を、そしてまた、健康であるうちに、一言一句なりとも、この尊極の法を説いていくことだ。それをおろそかにして、万歳を悔いてはならないと、私も思う。
5  寒風のなか、遠路ご参集くださった皆さま方に、心から感謝申し上げる。皆さま方のご多幸を心からご祈念させていただいた。
 大聖人が佐渡御流罪の時は、厳寒のさなか一間四面の三昧堂で、私ども末法の人類救済のための御法門をお遺しくださっている。
 幸せなことに、私たちはいま、このように、すばらしき文化会館に集いえたことを、たがいに感謝しなければならない。(拍手) 

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