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日蓮大聖人・池田大作

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秋田県代表者会議 信心の勝利は社会での勝利

1982.1.11 「広布と人生を語る」第3巻

前後
1  十年間もごぶさたし、申しわけなく思っている。このたびは、新文化会館が落成し、平和行動展も開催され、重ねがさねおめでとうと申し上げたい。
 秋田も、五万の同志の皆さまのお力によって、苦難の坂を乗り越えてきた。これからも、小松県長、日内地県本部長を支えて、二十一世紀の五月三日をめざして明るく前進していただきたい。大分も五万、いま、秋田も五万、両県とも二十一世紀までに、十万を目標に競っていったらどうかと提案したい。そのためにも私は、ひたすら皆さまのご長寿を祈ってやまない。
2  信心とは「疑わざること」である。また「真実を訴える」義がある。この両方があって、まことの信心といえるのである。すなわち、自行化他である。これが、まことの大聖人の仏法のいき方である。
 皆さまは、このとおりに信心しておられるがゆえに、偉大な地涌の方々なのである。さらに自信をもって、正しい仏道修行の大道を、ともどもに歩んでいただきたい。
3  御本尊は絶対であられる。つぎは信心の厚薄が大切なのである。すなわち、生涯にわたって信心を貫きとおすか、苦難のときにあって信心が乱れるかが、重要な岐路となる。つまり、信心強盛な人は、難があれば、さらに信心が強くなる。信心の薄い人は、才智がさきにたって、どうしても疑いやすくなるものだ。
 どうか、なにがあっても、すべてのことを仏道修行と決めて、潔い信心で、立ち向かっていっていただきたい。
4  われわれは、日蓮正宗の信徒である。また在家であり、社会人である。したがって、成仏への信心はとうぜんのことながら、日々の生活、社会に、その証明、昇華していかなければならない。
 「天晴れぬれば地明かなり法華を識る者は世法を得可きか」と。
 この御文は、日寛上人の文段に甚深の解釈があるが、要するに信心をたもつ人は、社会にあって、世法のうえでもその知恵、努力、誠実をもって、信頼を勝ちとっていかなければならないといえる。すなわち、信心の勝利者は即社会の勝利者でなければならないということを銘記されたい。
5  信心は以信得入である。
 “何があっても御本尊へ”との勤行・唱題、たゆまぬ精進こそ、信心たるゆえんがある。すなわち、妙法という大法へ、深く強い信をもって帰命していかなければならない。
 組織上の役職のみで信心をはかったり、教学や弁論のみで信心をはかることはできない。生活が乱れ、同志を批判し、組織を利用し、人々から不信をかっていくような人は、信心即生活の原理原則から離れているといわざるをえない。
 わがままな人、名聞名利の人、独善の人、自分のみを飾ろうとしている人は、この「妙法」を手段とし、組織を手段とし、同志を手段としている本末転倒の人といってよい。妙法が根本でなく、わがままな自己が中心であるがゆえに、かならずその人は狂い、堕ちていくものだ。
6  私はずいぶん人から騙された。また、おとしいれられた。しかし、すべて寛大にしてきたつもりである。だが、自分の信心だけはますます深く徹することができたと思う。
 三十数年間の信仰生活で実感するのだが、人をおとしいれようとした人こそ、自分にやしいことがある。また、そのみずからの悪を隠そうとする根性があるものだ。
 しかし、因果の厳しい理法で、その人たちこそ、最後はみじめな結果となることはまちがいない。
7  次に御書を拝したい。
 「善き哉善き哉汝等南無妙法蓮華経と受け持たん人を守らん功徳いくら程とも計りがたく・めでたき功徳なり神妙なり
 「かたきををく・かたきは・つよく、かたうど方人は・こわくして・しま為負け候へば悪心ををこして・かへつて法華経の信心をも・やぶり悪道にをち候なり、しきところをば・ついしさ退りてあるべし、釈迦仏は三十二相そなわつて身は金色・面は満月のごとし、しかれども或は悪人はすみる・或は悪人ははいとみる・或は悪人はかたきとみる
 妙法は絶対であるがゆえに、障魔の働きも強い。しかし、そのなかで御本尊を持っている同志を、どこまでも守りぬいていくことが大事なのである。
 最後に、お目にかかれなかった方々に、くれぐれもよろしくお伝え願いたい。

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