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第二回SGI総会 太陽の仏法は二十一世紀への光

1981.8.24 「広布と人生を語る」第2巻

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1  記念すべき第二回SGI総会を「正義ある限りハワイは不滅である」とのモットーの天地、このハワイ・ホノルルで開催することができ、まず、アリヨシ州知事とアンダーソン市長、アカカ下院議員に、一同を代表して、心から感謝の意を表するものであります。
 また、本日は各国の総領事、日本からも松下幸之助先生のご臨席をいただき多数の著名なご来賓の方々をお迎え申し上げて、日蓮正宗の武田得道尊司、パシフィック方面の親愛なるメンバー、親善交流のメンバー、そして世界各国の代表の方々が参加して、このように有意義にして楽しい総会を開催できえましたことを、私は最大の敬意をもって御礼申し上げるものであります。
 すでに三日間にわたって、今回のテーマである「平和と文化」については、各国の代表者でディスカッションをいたしましたので、その内容、経過については省略させていただきます。
2  昨年十月の第一回SGI総会よりこの八月までに、私は皆さん方を代表して十か国をまわり、ロヨ・パナマ大統領、ロペス・メキシコ大統領、チーホノフ・ソ連首相、ジフコフ・ブルガリア国家元首、ジノワツ・オーストリア副首相、ポエール・フランス上院議員、また、ローマ・クラブのペッチェイ博士、フランス・アカデミー会員ルネ・ユイグ氏、カラン・シン・インド文化関係評議会副会長、梅益中国社会科学院副院長、そしてメキシコ国立自治大学のセラーノ総長、ペルーのサンマルコス大学のムッソ総長、モスクワ大学のログノフ総長、ブルガリア・国立ソフィア大学のディミトロフ総長、パリ大学ソルボンヌ校名誉総長のデュプロン博士、ベルリン自由大学のカーン博士、ボン大学のデアボラフ博士、オックスフォード大学のウィルソン教授、ハワイ大学のグレン・ペイジ教授、また、AP通信社のフラー社長、キッシンジャー博士、ウィーン・オペラ座のユングブルート総裁、ミラノ・スカラ座のバディーニ総裁らと親しく平和そして文化、教育を語り合ってきました。
 その会見の結論は、すべて人類が平和でなくてはならないという一言につきるのであります。
 その間、すでに故トインビー博士と『二十一世紀への対話』を発表したことは、ご存じのとおりですが、昨年九月、フランス・アカデミー会員のルネ・ユイグ氏との対談集を『闇は暁を求めて』という題でフランス語で出版しました。
 またローマ・クラブのペッチェイ博士とはすでに対談を終わり、『人間と世界』(仮題)を出版する予定になっております。なおオックスフォード大学のウィルソン教授とも『社会と宗教』(仮題)を出版する予定になっております。モスクワ大学のログノフ総長とも人間と科学をめぐっての対談を開始しました。さらに今後、世界的著名人数人とも対談していく準備もかさねていることをここにご報告申し上げます。
 また昨秋、ウィーン・オペラ座三百五十人を日本に招聘し、本年九月にはミラノ・スカラ座四百九十人を文化運動の一環として招き、日本公演をおこなうことになっております。
3  かの世界的文豪といわれたゲーテは、「国民的憎悪というものは文化のもっとも低い段階にあって、もっとも強烈に現れるのがつねである。しかしながら、こうしたものが全く姿を消し、いわば国民的なるものを超絶し、隣国の幸・不幸も自分のことのように感ずる境地がある。この文化段階が、私の性質にはふさわしい」と述べている。私もまったく同感であります。
 ここにゲーテのいう隣国の幸・不幸も自分のことのように感じられる文化段階を築き上げる礎となりうる宗教が、東洋の仏法の真髄である日蓮大聖人の仏法であると私は強く確信している一人なのであります。
 過去のあらゆる人類の歴史を通観しても、その「平和と文化」をもたらした根底には、かならずやなんらかの哲学、思想、または、それなりの宗教が地下水のごとく流れていたことは歴然たる事実であります。根のない樹木は栄えないのが道理なのであります。しかしあまりに変遷きわまりなき価値観、また、急激な多様性の時代の変化を確固とリードしゆくべき哲学、思想、宗教は、いまや夕日のごとく色あせ、もはやそれらの思想、哲学、宗教では人間の悟性をコントロールできなくなってしまった。つまり人間性をも悪の欲望、すなわちエゴの生命のとりこにしてしまったといえるでしょう。
 すなわちこれらは月のごとく存在すれども、その民族、そして人類をもたくましく蘇生させ、明確なる指標をあたえゆく力がなくなってしまったといってよい。
 日蓮大聖人の仏法は太陽の仏法であります。七百年の伝統をもつ日蓮正宗という、矛盾なき確たる人生観、生命観、社会観、宇宙観を解明し、因果の法理を説き明かした、新しき二十一世紀へ人類の依怙依託ともなるべき大仏法なのであります。(拍手) 
4  さる六月二十八日、シカゴにおいて二万人のメンバーが多数の来賓をお迎えして、平和讃歌の第一回世界平和文化祭を開催しました。世界各国の民族舞踊による絢爛たる人間讃歌の華が咲きましたが、そのなかで、ひときわ万雷の拍手がわきおこった一シーンを忘れることができません。それはアラブの人とイスラエルの人がたがいに手を取り合い抱擁しあい、友情を確かめあうというシーンでありました。
 ともかく地球上の人々は、だれ人といえども平和を願望しているものであります。その平和のうえに人間文化の華を咲かせながら生涯を送りたいことを夢見ているのであります。もはや、人類は戦争がいかに残酷であり悲惨であるかをだれ人も知悉しております。その平和は待って得られるものではなくして、一人ひとりの人間が、そして民衆が、幸福への生存の権利のために。みずからがめざめ、みずからがのそ平和を満喫していくための自覚ある運動が、強く必要となってきているのであります。
 ともあれ、平和といい文かといい観念からは生まれてこない。深く根ざした心情・信念をもって、生命尊重をあくまでも第一義として実践・行動していくことを知らなければならない。あくまでも売名や観念論ではなく、真実の行動こそ必要なのであります。
5  ここで私は、仏法者の一人として人道的見地から核兵器のことについて、ひとことふれさせていただきます。とくに最近は、核兵器による先制攻撃ということが盛んに論議されております。ひと昔前までは、核兵器は保有していても実際には”使えない兵器”といわれていました。核兵器をもっていれば、相手が戦争を始めようとしても報復を恐れるあまり仕かけることができない――すなわち、核が戦争への歯止めになるというまことに愚かな幻想が大手を振って通用していたのであります。なぜ幻想かといえば、この種の論議は、戦争の根本原因である人間相互の不信と憎悪と恐怖を前提にし、それらをテコにしてのみ成り立つ議論だからであります。
 はたせるかなそうした幻想はもろくも崩れ、核兵器はいよいよその悪魔の牙をあらわにしてまいりました。相手にどう核兵器の先制攻撃をくわえ勝利をもたらすかという最近の論議では、もはや核は”使えない兵器”ではなく、”使える兵器”として公然と戦略理論が練られているのであります。ここのところ平和を希望する人々の眉をひそめさせている、建物を破壊せず人間のみを一気に殺傷させるという中性子爆弾なども、その延長であるといってよい。不信と憎悪と恐怖を前提にするかぎり、とうぜんの帰結ともいえますが、それだけに、核兵器のもつ悪魔性をえぐりだしていく作業が今日ほど要請される時代はないと思いますが、皆さまいかがでしょうか(拍手)。この人間不信と憎悪と恐怖を生み出す淵源を、仏法では元品の無明と呼んでいるのであります。
 ゆえに、すべてを本源的にとらえていくならば、平和といい文化といっても、そうした生命次元の変革――元品の無明を元品の法性に転じ、人間が人間らしく平和と幸福に生きるためへの英知、すなわち高等仏教による信仰の労作業を抜きにしては考えられない時代に入ってきた、と私は訴えたいのであります。
 したがって、私どもの信仰のうえにつらなるこの運動は、二十一世紀へ向けてますます重要度をましてくることは、必定なのであります。(拍手)

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