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日蓮大聖人・池田大作

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フランス信心懇談会 人生を飾りゆく名優たれ

1981.6.13 「広布と人生を語る」第2巻

前後
1  フランス日蓮正宗も、この二十一年間で第一幕が終わった感がする。第一幕はほんとうによくやってくださった。よくここまで発展された。日蓮大聖人のお喜びはいかばかりかと敬意を表し讚嘆するものである。
 これからは二十一世紀へ向かって、第二幕の二十年間を、自身のためと家庭のためと社会のためと永遠の生命のために、いかに妙法の信心が偉大なものであるかということを感得しながらの、すばらしき人生を送っていただきたい。
 連日の晴天のもと、求道の心と晴れやかな体験と確信をもった多くの皆さまとお目にかかれて、私もうれしい。これからも妙法に照らされた兄弟、姉妹、親子、親類のような、あくまでも家庭といううるわしい結びあいを土台としながらの、フランス日蓮正宗のご発展であることを願うとともに、皆さま方のご多幸を祈ってやまない。
2  昨日はフランス日蓮正宗の基盤をつくられた草創期の方々と心ゆくまで懇談した。
 仏法では、だれ人たりともこの世に使命をもっていると説かれているが、ここからすべては出発している。一軒の家を建築する場合でも、屋根、建て具、電気、水道等の業者がそれぞれの立場に応じて作業をすることにより、一軒の完全な家ができる。と同じく広宣流布という大偉業も、さまざまな分野と立場と個性が交差しながら完成されゆくことを忘れてはならない。
 よってその人の個性、特性を尊重し、生かし、励ましあいながらの信心と信心の連帯の前進が大切になってくる。
 幹部の方々は余裕をもっていただきたい。大勢のメンバーを、楽しく毎日善導していくためには、余裕がなくてはならない。
 また包容力をもたなければならない。けっして感情的になってはならない。包容力のないリーダーのために、後輩が苦しい思いをしてはかわいそうである。心して、勤行・唱題により一歩前進への仏道修行と思ってみずからを成長させていくべきである。
3  だれ人たりとも病気になる場合もある。経済苦に悩む場合もある。また悲しみもある。しかし信心をもった人のありがたさは、それらの現実生活の坂を声高らかに題目を唱えながら、いっさいをゆうゆうと乗り越えていけるところにある。悲しみや苦しみに引きずられないで、それらを全部あすへの人生の強力な発条としていけるところにあるといってよい。
 この一点が、信心があるか、信心がないかの別れ道である。心してこの大切な一生の山を、潔い信力・行力で、所願を満足しながら登りぬいていただきたいのである。
4  フランスにもさまざまなたとえがあると思うが、日本にも「三本の矢」というたとえがある。一本ではたやすく折れる。しかし三本を束にすれば折れない。また一本の棒は倒れてしまうが、三本を支えあわせれば安定する。と同じように、メンバー一人ひとりが、中心者を支えあっていくならば、どれほど強力な和合僧になり、また安定しゆくかということを知らなければならない。
 小さい会合をたゆみなく繰り返していくことだ。そのときそのときで、大勢参加する場合もあるし、少ない場合もあるかもしれない。しかし落胆してはならない。
 大岩に波が繰り返しながらつねに当たりゆくときに、その大岩もいつか崩れていくものだ。と同じく、小さい会合の波を、日々、年々いくだびも繰り返していくときに、広宣流布の偉大なる大河ができあがっていくことを忘れてはならない。
5  人生は劇のようなものである。たとえば映画を見ても、初めは不幸や苦難の姿であっても、やがて最終的には幸せの凱歌をあげるというものが多い。と同じく、われわれは願って、この地球という舞台にさまざまな姿をして出現し、正法の証明のために、厳しき現実のなかに常楽我浄という所願満足の人生を飾りゆく見事なる劇を、名優のように演じていることを知らなければならない。
 その劇の名優にはすべてそれぞれの個性があり、役目があり立場がある。またそれぞれの個性と役目を最大限に発揮させるためには、ディレクターも必要である。
 しかし舞台裏にもどった場合は、皆同じ人間であり社会人であり、仲間であり、同じ平等な家族といってよい。そこにはかたよった上下関係はない。皆で呼吸をあわせ励まし合って生きぬこうとするところに最大の効果が表れる。われわれの広布に向かう組織もそうでなくてはならない。
6  ともかく私の体験からすると、まず信心は二十年が第一期であると思っていただきたい。それも退転した年限は差し引いていただきたい。(笑い)いまだヨーロッパの方々は平均十年前後である。
 大木になればおのずから大地に、すなわち社会に完全なる根をはることができる。あの地この地で妙法受持の人が社会のなかで大樹となってそびえ立っていけば、しぜんに大勢の人々が寄ってくるし、また仰ぐものである。
 また「仏種熟益」といって、妙法の種が心田に植えられ、それが大功徳の生命の木になったときには、取っても取られてもつきることのない花と実が、あとからあとから咲き実りゆくものである。
7  若木では幹も細いし、いまだ実も青い場合もある。それであっても鳥が来てそれを取ろうとするものである。仏法のうえでは、いわゆる魔の働きといってよい。しかし仏種熟益の大樹になれば、いくら取られようと、鳥についばまれようと、それが全部”毒鼓の縁”となってその種から新しい木になってふえていく。それが円教である妙法の力なのである。心して恐れずにひたすら信・行・学に励んでいただきたい。
8  会議ならびに合議は大切である。しかし、最終的にはそれを決裁し、最高責任者として広宣流布の諸活動を推進しゆく中心者が必要であることはとうぜんの理である。その人は山崎議長である。山崎議長はもはやフランス国籍の人である。この方を支えながら、自分の進歩向上と永遠にわたるフランス日蓮正宗の基盤をつくっていただきたい。
 日本においては、このたび海外との交流推進の中心である国際センターの理事長に秋谷副会長(現会長)が就任した。なお同センターの事務総長である滝本副会長は皆さまからたいへん慕われ信頼されていると聞く。私もたいへんうれしい。秋谷副会長は日本で、北条会長のもと多忙な日々を送っているため、なかなかヨーロッパの地を訪問できないが、皆さま方はなんでも滝本副会長に相談していただきたい。この人は人柄もよく信心歴も二十年を越えた人である。
 なおヨーロッパの教学の指導については桐村教学部長がその任にあたる。彼も優秀なリーダーであり、また皆さまの信望も厚いとうかがい、私もうれしく思っている。また今回、山崎議長のもと高橋英明君に皆さまのための尽力をお願いした。彼もまた優秀なる人材であり、まだ若いがかならず皆さま方のご期待にそうことを私は確信している。
9  フランスの方はよく「けれども」と弁解がましくしう場合があるようだ.しかし、けれどもというまえにまず題目を唱えていくことが大切なのである。日本では和泉副会長がその点を厳しく指導している。まず題目、それから論議をし、また題目を唱えるという根本の姿勢を忘れてはならない。
 枝葉末節の議論ばかりに流されてはならないし、信心・唱題が、最重要の原理、原則であることを忘れてはならない。信心の前進、広宣流布の前進を見失ったら、それは愚かといわなければならない。仏法者として広く大きい境涯に立ち、多くの人々を幸せに導くためのいっさいの議論でなくてはならない。
 また自己を主張するだけでなく、他の人の意見にも耳をかたむけて尊重していく大きさをもっていくことが信心である。また自己の意見がとおらないことがあったとしても、信心という原理、原則に立つならば、おのずとよい結果が得られることを知っていただきたい。
 人間は科学のみでは釈明できない。人間は理論の動物でもない。知情意のすべてが統合されたところに真実の人間の姿があるものである。むずかしくいうならば、一念三千である。御本尊への強き一念と一念の結合が異心同体である。いっさいはそこからしぜんと開けていくものなのである。
 ともかくいまは、日本、フランスの別を論ずる以前に、信心という原理、原則のうえに、ともども守りあい、支えあい、前進をしていっていたたきたい。広宣流布という大目的のまえには、そうしたほうがより価値があるからである。
10  フランスはレジスタンス運動で有名であった。皆さま方も大聖人の仏法を根本とし自分自身の己心の魔、また堕落へのレジスタンスを、また世の中の不幸を幸福に変えていく仏法のレジスタンス運動を展開されることをお願いしたい。これが折伏精神である。
 ともあれ、御本仏日蓮大聖人から、また御法主日顕上人猊下からおほめをいただけるようなフランス日蓮正宗になっていただきたい。そして世界に冠たるフランス日蓮正宗の一人ひとりの輝きを、生活のうえに、現実のうえに示してしただきたい。

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