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日蓮大聖人・池田大作

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ヨーロッパ広布20周年記念総会 「行学の二道」を深く

1981.6.7 「広布と人生を語る」第2巻

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1  「行学の二道をはげみ候べし、行学たへなば仏法はあるべからず、我もいたし人をも教化候へ、行学は信心よりをこるべく候、力あらば一文一句なりともかたらせ給うべし
 「諸法実相抄」は文永十年(一二七三年)五月、佐渡の島で弟子・最蓮房にあたえられた御書である。
 最蓮房は、初めは天台宗の学僧であったとされるが、何かの理由で佐渡に流された。やがて佐渡御流罪中の日蓮大聖人の崇高な御生命にひかてれ、文永九年(一二七二年)二月ごろに、大聖人に信伏随従し、その弟子となったようである。
 最蓮房は、まことに大正法への信心深く、そのゆえに、かずかずの深遠なる御法門について、大聖人に御教示を仰いでいる。
 その代表的なものとして「生死一大事血脈抄」「草木成仏口決」等の重書をたまわっている。
 この甚深の「諸法実相抄」もその一つである。すなわち、法華経方便品の「諸法実相」という法門の奥義を、日蓮大聖人の仏法の立場から――すなわち、文底からお説きあそばされた御抄であり、そのゆえに、この題号がある。
2  ただいま、ともどもに拝読したこの一節は「諸法実相抄」の最後を飾る結論であり、御法主日顕上人猊下を仏法の師と仰ぎたてまつる私ども、日蓮正宗創価学会の、信心という根本軌道、そして修行という実践軌道を歩みゆくうえで、最極の基本とすべき「信・行・学」の根本路線を、明快にしてあますところなく御指南くだされた御聖訓である。
 もとより「信・行・学」といっても、三にして一体的なものとしてとらえるものではあるが、大聖人は、ここで「信心」と「行学」という鋭き視座から、凡夫である私どもに、太陽に照らされて曇りなきがごとく明瞭に、この深き信心の一念からの出発を、御指南いただいたと拝したい。
3  この甚深の御聖訓について、まことにおそれおおいことであるが、会通をくわえさせていただきたい。
 ただいま拝した御文にさきだって、日蓮大聖人は「一閻浮提第一の御本尊を信じさせ給へ、あひかまへて・あひかまへて・信心つよく候て三仏の守護をかうむらせ給うべし」と仰せられている。
 すなわち、大御本尊への強盛にして深き信心があるならば、釈迦、多宝、十方の諸仏の広大にして深遠の加護があるゆえに、心してかぎりなく日々、月々、年々に信心を貫きとおしていきなさい、との仰せである。
 また、総本山第二十六世日寛上人は、「三重秘伝抄」に「法華経を信ずる心強きを名づけて仏界と為す」と仰せになっている。
 これらの御金言、そして御文を拝し手ゆくときに、ただただ大御本尊への信心を深化させ、強盛になしゆくことが、私どもの励みゆく「行」と「学」との目的であると知悉できるのである。
 結論するに、あくまでも「信心」を深めゆくための「行学」であり、「行学」はまた「信心」を根本としてのものでなければならない、という関係になっていくことをゆめゆめまちがえてはならない。
4  「行学の二道をはげみ候べし」――「行」と「学」とは、車の両輪、鳥の両翼のごとくであるといってよい。この両立は、まことに厳しいものがあるが、ともに欠かせぬ日蓮大聖人の事の仏法の信仰の基盤であるとともに、その実践を持続していくところに、個人においては一生成仏への、組織にあっては広宣流布への、とどこおることなき前進がなされてゆくことを知っていただきたい。
 孤独の信心では、行と学との終生にわたる実践は、凡人ではとうていできないものである。
 ここに、和合僧という励ましあいに連携が必要となり、かつまた、ともに支えゆく異体同心の大目的にたった交流が、必然性として生じてくるといってよい。
5  一生成仏の要諦を御教示 
 ともかく、日蓮大聖人の仏法は”理“ではなく、”事”である。”事”とは、ご承知のとおり、大御本尊に信心したてまつり、行――すなわち勤行・折伏――そしてまた教学を学びながらの破邪顕正の法戦であるといってよい。
 ゆえに、行のみあって学を怠る人は、学――すなわち、よくよく御書の一節一節を拝しゆく努力をなすべきである。そうでなければ、この全人類の大正法たる日蓮大聖人の仏法を、明確に多くの人々に説き、指導し、大法宣揚の責務をまっとうすることができないからである。けっして法を下げてはならない。
 半面、学のみに終始して行を怠っている人は、いかに御書についての知識を広くもったとしても、それだけでは、功徳にもならず、妙法それじたいを、自身の福徳への血肉とすることはできない。
 すなわち、大聖人の仏法の究極の指標は、信心という実践の修行を究め、あくまでも「一生成仏」をめざすことにあるからである。
 もしも法門知りたげに、増上慢の心を起こし、空理空論におぼれゆく人は、もはや真の日蓮大聖人の門下でもなければ、仏法者でもない。
 そのような傾向の人々の多くは、令法久住、広宣流布への実践、修行が皆無であるがゆえに、ただただ法華経受持の人々を批判的にみて、心に悪業をつくっているからである。
6  「行」とは、一言にしていうならば、自行としての勤行・唱題とともに、化他行としての折伏・弘教である。これが日蓮大聖人の仏法の修行なのである。
 ひろく御書を拝しても、あるときは自行を、あるときには化他行を強く訴えられている。
 たとえば、文永十年(一二七三年)四月に著された「観心本尊抄」では、大御本尊について説かれ、「受持即観心」という成仏の要諦を明かされている。これは自行の側面である。
 しかし、翌月に著された「如説修行抄」には、如説修行の折伏行、すなわち化他行を強く勧めておられる。
 要は「三大秘法禀承事」に「末法に入て今日蓮が唱る所の題目は前代に異り自行化他に亘りて南無妙法蓮華経なり」と、明々白白に御教示あそばされている。
 したがって「自行」と「化他行」をふくめあわせての「行」に、勇猛精進しゆくことが、日蓮正宗の正しき強き信徒といえるのである。
 ともあれ、三大秘法の大御本尊――多宝富士大日蓮華山大石寺におわします一閻浮提総与の大御本尊――への勤行・唱題がいっさいのなかの完璧な修行の根幹であることはいうまでもない。
 ここでとくに留意しておかなければならないことは「受持即観心」のみを独善的に主張して折伏・弘教に励まない人であるならば、これは無慈悲のそしりをまぬかれないのである。
 大御本尊の広大無辺の大慈大悲に浴し、報恩・感謝の信心の喜びが、生活の場に、社会の場に広がり、かつまた、その喜びをいっさいの人々と分かちあおうという、誠意と慈愛と信心深化の行為が折伏・弘教につうずるのではないだろうか。
7  もう一面の次元から論ずるならば、八万法蔵の根本、そして日蓮大聖人の魂であられる大御本尊を知らず、六道の波におぼれ輪廻し、また九界の嵐を知らず浅瀬に屯する人々に同苦するがゆえに、折伏・弘教をなさなければならないのである。
 従来、信仰というものは、人間の内奥世界の問題として、ひとり静かに閑処で修行することが聖者であるかのような錯覚が多々あった。しかし、それではあまりにも利己主義である。
 信仰は、人間の内面の世界にとどまるものではなく、その内なる世界より外なる世界へと――すなわち、現実の生活、現実の人生、現実の社会へと――大きく羽ばたき、具現化されなければ、その意義は軽くなってしまうといわざるをえない。
 このことは「立正安国」の御聖訓に明確の示されている。広宣流布のおおいなる指標をしめされたゆえんもここからわかるのである。
8  自行・化他が末法の修行 
 いうなれば、折伏・弘教は、個々の人間の内なる信心という柱を、さらに深く強靱にしゆくものである。
 換言すれば、縦には永遠不滅に、横には宇宙大に遍満する南無妙法蓮華経という大法を弘めゆく、慈悲と正義と信念の行為であるがゆえに、われわれの折伏・弘教は、恒久平和、人類福祉への揺るぎなき本源的な大仏法運動、大文化運動であると確信してやまない。
 古来、仏法は厳として平和主義を貫きとおしてきた。これは歴史の証明するところである。日蓮正宗創価学会は、絶対平和主義の教団であり、団体であることを、ここに宣言するものである。
 どうか皆さま方は、それぞれの国の法律にしたがい、よき市民、よき社会人として、良識豊かに「一切法皆是仏法」との御聖訓をよくよく体して、模範の国民となることを念願してやまない。
 われわれは、暴力を絶対否定する。
 妙法の世界の友のあいだでは、その心と心は平和のために結びあいながら、前進していくのであるが、一国一国にあっては、その国の伝統ならびに風習を最大に尊重しあっていきたいものである。
 独善的に「われひとり尊し」とする信心は大聖人御みずから南無妙法蓮華経を唱え立宗を宣言された後、ただちに御生涯にわたっての実践を貫かれ、広布大願の成就をなさんとされたのである。
 ゆえに、われわれは、弟子として、信徒として、大御本尊絶対との信心に立脚しながら、一生成仏、広宣流布への行学に励みゆくのである。
9  “慢”こそ仏法者の恥辱である。いかに正義の弁論をもってわが身を荘厳しようとしても、その根本は無明であるとともに、魔王の生命である。
 われわれは、あくまでも本門戒壇の大御本尊を信奉したてまつり、日顕上人猊下に随順し、よって、民衆のなかに||悩める友、法を求める友、より高き人生を希求してやまぬ友の真っただ中に飛びこみ、多くの国々、多くの人々に、この大聖人の”太陽の仏法”の存在を知らしめゆく、尊くも誇り高い人であるとの自覚をもっていただきたい。
 「行学たへなば仏法はあるべからず」との仰せは、まことに厳格な御指南であられる。
 端的にいうならば「行学」が絶えたならば、末法唯一の成仏の直道たる日蓮大聖人の文底下種はありえないとの御断言なのである。
 この大仏法の究極唯一の法体は、申すまでもなく、本門戒壇の大御本尊であり、法灯連綿、御歴代の御法主上人がこの大御本尊を厳護したてまつられてここに七百年、そして、あいがたき宗祖日蓮大聖人第七百御遠忌の今日にあっては、第六十七世日顕上人猊下に、この絶対なる血脈は、厳然と承継されているのである。
 誰人がいかなる非難をいたそうが、これは侵しがたき、明確なる事実なのである。
 おそれおおくも、遠く日蓮大聖人の時代にあっても、仏法の本源の師であられる大聖人に弓を引く僧があったが、いままた、元日蓮正宗の久保川某をはじめとする一派が、御法主上人に違背逆している。
 その「心破作七分」の大謗法は、まことに堕地獄の所業であり、正法奉持の厳しさここにきわまれり、と思わざるをえないのである。
 したがって本門戒壇の大御本尊に帰命したてまつり、それを起点としての「行学の二道」に邁進しゆくところにのみ、真実の日蓮大聖人の仏法があるとともに、大聖人の御称賛をあびながらの、一生成仏があることを知らなければならない。
10  行学の二道で大願成就へ 
 つまり、本門戒壇の大御本尊に帰依することが、私ども、大聖人門下の「信心」である。
 この宇宙法界の妙法の当体たる大御本尊への信心から出発し「行」と「学」という軌道を確実に前進しゆくところに、わが肉団の「九識心王真如の都」のが永遠に、光輝燦然として開かれていくのである。
 と同時に「信心」からほとばしる、胸中の仏界ともいうべき光輝あふるる生命力をもって、再び「行」と「学」の軌道にのっとり、多くの世界の友を大御本尊へ導き、広宣流布大願成就へと向かいゆく、この連関行動の遂行こそ、私どもの責務であり、心情であり、実践であるといってよい。
 御書は甚深にして、われわれ凡夫に解しがたきことはとうぜんである。しかし、御書を拝読しなければならない。御書を拝さなければ「行学」の「学」がなくなってしまうのである。
 世界中の人々が、バイブルやデカルト、カント、マルクス等の書にかえて、この不滅にして永遠なる大仏法を拝しゆくことを祈らずにはいられない。そのうえで、絶待妙の立場から、これらの哲学を止揚していけるのである。ここにのみ、恒久なる平和の原理とたしかなる人類希求の声ありと、叫ばずにはいられない。
11  かつて無謀なる第二次世界大戦があった。当時、平和主義を標榜するわが創価学会は、真っ向から戦争に反対し、軍部政府に弾圧され、事実上壊滅した。
 当時の幹部二十一人が投獄され拷問された。すべての者が退転しゆくなかで、牧口常三郎初代会長は、不動の信念のままほうに殉じて獄死、戸田城聖大二代会長(当時、理事長)は仏法信仰の信念を貫きとおし、ひとり戦後の焼け野原に立った。
 そのときに「何故、多くの同志が名誉ある法難にあいながら、退転していったのか」と戸田先生は自問した。その一つの答えとして「信心の深さがなかった。教学に精通していなかった」との結論をだされた。
 いかなる大難ありとも揺るがざる信心、その一つの支えは、教学の研鑽がおおいなる力となるにちがいない。
 その大切な御書を拝する姿勢は、すばらしき信心の発露からであっていただきたい。
 心ほど瞬間瞬間、微妙に変化して、複雑きわまりないものはない。その心が透徹して。つねに大御本尊へ、大御本尊へと祈り、信じ、深め、たしかにしゆくところに、信心の信心たるゆえんがあるといってよい。
12  この南無妙法蓮華経の御本尊の仏力・法力に感応しゆく、私どもの信力・行力によって、いかなる宿命、宿業も絶対に打ち破ることができるのである。宿業の厚き鉄のといっても、御本尊への強き祈りの信心によって、かならずや開きゆくことができるのであり、これを妙法というのである。
13  折伏を行ずる人は如来の使い 
 「我もいたし人をも教化候へ」――日蓮大聖人の仏法における信心は、この御文に仰せのとおり、自行化他にわたる行躰即信心でなければ、まことの信心とはいえない。
 信心の眼から照射するならば、折伏・弘教といい、悩める友への指導、激励といい、すべてが人のためにおこなっているようにみえるが――ありがたいことに、じつは、円融円満の大法のゆえに、いっさいが人のためであるとともに、わが身の功徳善根にかえり、わが身を荘厳しゆくことを忘れてはならない。
 ゆえに、信心の実践には、微塵たりともむだがない。とともに、絶対犠牲はないのである。ともあれ、折伏行を実践しゆく人は、経典に照らし、御書に照らし、まことに誇り高き、尊き”如来の使い“なのである。
 「行学は信心よりをこるべく候」――この御文は、行といい、学といっても、その根本の出発は信心でなければならないという、ゆめゆめ忘れてはならない大事中の大事の御聖訓である。
 御書を拝し、経典をひもとくに「仏法の根本は信を以て源とす」ことは明白であり、この一点に、いっさいの意識革命、人間変革、生活革命、平和革命への強靱なる原動力があることを確信すべきである。
14  せんずるところ、大御本尊への信心から発した行学でなければ、われわれにとっては無意味なのである。いかに御書を拝し、経典に親しみ、注釈書を研究したとしても、大御本尊にひたすら南無しゆく、信と行と学の精進なくしては、絶対に成仏はありえないし、かえって、苦悩と謗法と邪心におちいってしまうのである。これ恐るべし、恐るべし、である。
 現実に、三十数年間の信心修行をとおしての体験をみたときに、御本尊を受持していたとしても、信心を根本としない行学の人は、かならずといってよいほど、崩れさっている。
 結論的にいうならば、残念なことに、退転していった人々の場合、多くは、その行者は、純粋な大御本尊への信心から出たものではなかった。
 人目にはよく見えていても、せんじつめれば、その心の奥底をたどってみるならば、根本が名聞であったり、名利であったり、役職と権威への欲望であったりして、根本中の根本であるべき大御本尊への信心においては、かならず弱さがつきまとっていたといってよい。
15  信心とは何か――これがじつに重大な問題である。すでに、いくたびも申し上げたが、いかなる怒濤、いかなる嵐、いかなる中傷、批判、いかなる法難ありとも、また、いかなる自身の宿命との対決があろうとも、一閻浮提総与の大御本尊に、雄々しくして勇敢に南無し、信じたてまつることである。そこに成仏への道がある。
 それを確信する心、これを信心というのである。
 もちろん、初信の人々は、かかる深き信行学はないかもしれない。しかし、そういう初信の方々も、地涌の菩薩の眷属としての誇りをもち、その国の、その社会の、その一家の柱となるべく、また、最高の”自体顕照“の人生を歩みゆくよう、先輩、同志の方々は、手をとり、手をつなぎながら、守り、育成してくださるようお願いしたい。
16  ともあれ「仮使発心真実ならざる者も正境に縁すれば功徳猶多し」とあるごとく、正境たる大御本尊に南無しゆく信心があるならば、功徳の体得は、日々、月々、ことを確信していただきたい。
 「発心」とは「発菩提心」の意義である。簡単に申し上げれば、信心ということである。「汝自身とは何か」「汝自身のこの世の使命とは何か」「汝自身の永遠にわたる生命とは何か」「汝自身の現実社会における境涯をどこまで開き、かつまた、社会にいかなる価値を創造し、貢献をなしうるか」
 こうした重大な課題に、かぎりなく求道、挑戦しゆく仏道修行即人間修行を成し遂げていこうという、成仏への決心が、発心なのである。
17  朗らかに勇気ある前進を 
 初信の人々は、自分自身の苦悩の解決と願望の成就を願っての信心といえるであろう。しかし、深く日蓮大聖人の御書を拝しゆくならば、それでは完全にして真実の発心とはいえない。もちろん、それであっても、甚深無量の大法の功力によって、偉大なる利益、功徳があることはまちがいない。
 しかし、真実無量の大功徳に浴さんがためには、発心を真実にして、大聖人の門下として広宣流布に立ち向かい、地涌の眷属としての使命に生きぬくことこそ肝要である。これが、宗祖大聖人より御称賛いただける、まことの信心であることを知っていただきたい。
 大聖人の御遺命たる広宣流布を願って、自行化他の実践をしていくなかに、個々の願望もことごとくつつまれて、しぜんに所願満足の人生へとつうじていくことも、ここに確認しあっておきたい。
 畢竟するに、信心の信心たるゆえんは「無疑曰信」(疑い無きを信と曰う)と大聖人は仰せである。「開目抄」にいわく「我並びに我が弟子・諸難ありとも疑う心なくば自然に仏界にいたるべし」と。
 むしろ、苦難多きがゆえに、真剣な祈りと唱題がある。そこに煩悩を即菩提へと開きゆく信心がある。ゆえに、大聖人は「難来るを以て安楽と意得可きなり」と仰せである。よりたしかなる勤行・唱題に励みゆく理由は、かかる信心の境地を確立せんがためである。
 この一生のなかにあって、常楽我浄・因果倶時の生命の当体を確立せんがためには、熱烈たる思いの信心が必要であると訴えたい。そこにのみ、わが生命の奥底から、光輝燦たるみずみずしい確信が、つきることなく、湧き出ずるのである。
18  「力あらば一文一句なりともかたらせ給うべし」――どこまでも日蓮大聖人の仏法は、実践行動であるとの御文である。
 「力あらば」とは、もし力があるならばという意味ではない。御書に「随力演説」「随力弘通」と説かれているごとく、その人その人に力用にしたがいながらも、その社会で自己の総力を発揮しつつ、南無妙法蓮華経の大法を説くべきであるという実践軌道をお示しくださった御文である。
 法華経に「五十展転の随喜の功徳」が説かれている。
 仏の滅後に、法華経を聞いて、随喜して他人に語り伝える。このようにして、五十番目に法華経を聞き随喜した人の功徳がいかに広大であるかを説いているのである。
 法華経の説かんとするところは、最後に法を聞くという自行のみの人の大功徳をいて、最初に折伏した人、自行と化他行をともに実践した人の功徳がいかに広大無辺であるかを示すにある。
 大学の教授であれ、無名の一庶民であれ、また、法を説くことが苦手であれ、姿、形がどうであれ、大法を護持せる光り輝く”如来の使い“としての信心の歓喜があるならば、そして人々の幸せを願ってやまない真心があるならば、立派に折伏はできるものである。
 大御本尊に祈り随従し、欧州の方々の幸福と、安泰と、平和と、繁栄と、満ちたる人生の確立のために、一歩また一歩と、万年の未来へ、楽しくも朗らかな、勇気あるスクラムを組んでの前進を、くれぐれもお願いしたい。

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