Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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ヨーロッパ信心懇談会 信頼探き最高の常識人に

1981.6.7 「広布と人生を語る」第2巻

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1  体験は力である。体験は事実である。体験は確信である。そして体験は人を動かす説得力がある。昨日の体験談大会には私も深く感銘をうけた。私も三十年間の体験をいだきもっている。ゆえに、確信の人生を生きぬくことができたのである。
 御書に「道理証文よりも現証にはすぎず(御書一四六八=)と仰せのとおりである。また、日寛上人の仰せにいわく「理として顕れざるなきなり」はこれである。
 信心は教学を深める。教学は広宣流布を開く論理である。教学は、思想、哲学の悪と善を明確にしゆく英知である。
 題目は根本の生きる力である。現実を解決していく源泉である。衆生所遊楽という何物にもまさる深くして尊き境涯を感得できる。
 座談会は広宣流布への波である。信・行・学の修練の場である。民主主義の実相の場である。
 心と心を結び、人間と人間とが強くたくましく希望に燃えながら進歩向上していく原動力の場である。仏法を知り、信心を深め、教学を高め、そして社会へと目を開きゆく人間模様の教訓の場である。
 折伏は、その相手が信心しても、しなくても、末法の仏道修行の実戦の究極である。日蓮大聖人の仏法を信じ、奉じ、学んでいく正義の指導である。
2  組織は、仏法家族のうえにつくりあげた信心の増進と広宣流布を展開しゆく、和合体の要塞である。あくまでも信心原点、広布原点、そして人間原点の組織である。それは、生涯、確実にして価値的に、そして秩序あるすべての人の一歩前進のためのものであり、連帯の幸福を開き、守っていく図式であるといってよい。
 組織の役職は責任職である。権威職ではない。役職ある人は、それだけ信心を深め、人を愛し、守り、指導していく、より向上の姿勢が大切である。役職のない方々は、先輩がいるがゆえに、自分の信心のめざめがあったことを忘れてはならない。意見、希望を述べていくことは、とうぜんあってよいが、その先輩の苦労がわからず、信心向上のためのいろいろの指標に対して、わがままになり、人々に迷惑をかけるようなことがけっしてあってはならない。
3  信心といい、会合といい、組織といい、総じてすべてが、南無妙法蓮華経と唱え、人にも唱えさせていくということにつきる。それを本末転倒して、観念だけで空転したり、余計なプライバシーの侵害をしたり、悪口雑言の卑しい低次元のいい争いなどすることは、功徳を消し、最後に、みずからをみじめなものにしていくことを忘れてはならない。
 「わざわいは口より出でて身をやぶる・さいわいは心よりいでて我をかざる」と仰せの一節を、よくよくおたがいに肝に銘じたいものである。
4  信心しているからといって、現実の生活から遊離してはいけない。御書を学んだからといって、観念の遊戯におちいってはならない。すべて、現実社会にもとづいたものでなくてはならない。そうでない人々は、信心の指導はできなくなってしまう場合がある。心して、信心即生活をよくよく自覚されたい。
 良識豊かでなくてはならない。その国のよき市民でなくてはならない。教養を高め、礼儀をわきまえなくてはならない。たがいに尊敬しあって言葉遣いにも注意していただきたい。
 金銭上の問題は、厳格に、公正にしなくてはならない。金銭の不正や乱れは、いっさいの乱れにつうじるからである。
5  ヨーロッパは、山崎議長をあくまでも中心として、次の二十年へ向かって前進されたい。それぞれの国にあっても、先輩である中心者を支えながら、さわやかな団結で、異体を同心として励ましあうことをお願いしたい。
 男性幹部の方々は、婦人部の意見をよく聞いてあげていただきたい。また男子部は、女子部を守ってあげていただきたい。
 なお、幹部として、自分のエゴと、御書に相違するような野心と、売名のための、納得のいかない指導があった場合、けっしてしたがう必要はない。あくまでも納得のいく指導を求め、または納得のいく指導を咀嚼しながら、信心のまちがいなき前進をしていただきたい。
6  反社会的な行為があってはならない。「一切世間の治生産業は皆実相」であるがゆえに、反社会的な行為は悪である。よき市民としてのあり方に反する行為は、私どもの仏法の世界にあってはならないと思う。ともあれ、すべての人が正しい日蓮正宗の信徒として、日蓮大聖人から称賛され、また社会の人々から信頼される一人ひとりとなり、家庭を築いていただきたい。
 人をおとしいれようとする悪口、人を苦しめるような策謀をくわだてる人もいるし、これからもあるかもしれない。その場合は、内外ともに、よくその実態を確かめるべきであり、すぐに粉動されてしまうような、愚かな幹部であったり、信仰者であってはならない。
7  皆とものこの地は、デュマの『モンテ・クリスト伯』の小説の舞台となった地である。この小説の主人公である巌窟王のごとく、信心堅固な一人ひとりになっていただきたい。巌窟王のごとき、信心と広布の執念の人に、また巌窟王のごとく、この地のごとく、崩れざる広布人材の山脈の構築をお願いしたいという意義をこめて、この地にヨーロッパのセンターである研修道場を建設したことを忘れないでいただきたい。
 この研修道場の御本尊が御安置されている真裏に、約三千年前の、ローマへつうじる道の石畳と、この地に小さい城が存在したといういい伝えがあるそうだが、その石をけさ、私自身、見て確認してきた。まことに意義深く、世界広布を誓いあうにふさわしい土地といえる。
8  魔とは、仏道修行を妨げ、信心を妨げ、広宣流布を妨げる働きをいう。いうなれば、魔と仏の戦いが、信心ともいえまいか。仏界を出すか、三悪道におちいるかの戦いなのである。わが和合僧の組織にあって、ものごとを複雑にしたり、人にいやな思いをさせたり、信心に疑いを起こさせるような働きを魔という。信とは、その暗き苦悩をつきぬけて、晴ればれとした天空に向かう境涯のことである。
 謗法とは、南無妙法蓮華経を誹謗することである。それは極悪とされ、堕地獄の根源である。心しておたがいに注意していきたいものである。
 御本尊を受持する人をそしることをふくめて、これらは、「松野殿御返事」に「悪の因に十四あり・一に憍慢きょうまん・二に懈怠けだい・三に計我けいが・四に浅識せんしき・五に著欲じゃくよく・六に不解ふげ・七に不信ふしん・八に顰蹙ひんしゅく・九に疑惑ぎわく・十に誹謗ひぼう・十一に軽善・十二に憎善・十三に嫉善・十四に恨善なり」と仰せのように十四誹謗にあたるのである。
9  ともかくヨーロッパならびに各国の皆さまは、自国の中心者を強く守り支えるという決意がないかぎり、発展しないと思う。
 自動車の運転でも、なまはんか運転免許がとれて、いい気になっている人に、事故が多いようである。すべてのことが同じである。信心ならびに広布の世界の戦いも同じである。もはや、信心を知り教学を知ったとあさはかに思いこみ、すぐに批判したり、それに同調する人は、かならずといっていいほど、退転したり、人々に迷惑をかけているものだ。信仰の世界だけは、増上慢になって後悔するようなことがあってはならない。
 心して、だれに対しても、謙虚に礼儀正しく、それであって生命力満々として、水のながれるごとき求道心をもって、人生をエンジョイしながら、信心と人生の勝利の凱歌を飾っていただきたい。

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