Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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イタリア広布二十周年記念勤行会 妙法は人間復興の不滅の力

1981.5.30 「広布と人生を語る」第2巻

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1  ただいまいっしょに勤行をいたし、皆さまの勤行が、まことに正確で立派であることに感嘆した。その勤行について、簡略に要点のみお話したい。皆さまが心に思っておられるであろうことを語りあうつもりで話をすすめる。
 勤行における最初の方便品は、理の一念三千という生命の完全にして完璧なる法理を明かしたものである。他におおくの思想、哲学、宗教があるが、それらはすべて、その実相の一部分一部分を解明し、説いたものにすぎない。
 また方便品とは、西洋哲学では説き明かすことのできない、空仮中の三諦というまことに甚深の生命観、宇宙観が説かれた経文である。とくに「所謂諸法 如是相 如是性 ……如是本末究竟等」とは、生命、また宇宙森羅万象における、厳しき因果等の実相、法理を説いたものである。
 十如是を三回繰り返すのは、相如是、是相如、如是相という、即ち空仮中の三諦の意義をもって三回繰り返して読むのである。
2  寿量品は八万法蔵といわれるいっさいの仏教の根幹をなすものである。結論していうならば、仏の長遠の生命の実相をあかされた経文である。また、われわれの生命も、ありがたくも永遠悠久であることをお示しくださった経文である。これ以上の喜びはないといってよい。
 また、この寿量品の文の底に三大秘法の南無妙法蓮華経が秘沈されているのである。「自我得仏来……速成就仏身」のいわゆる自我偈は、始めの「自」と終わりの「身」で、終始、仏自身の悟りと生命の無量永遠を示されていることはとうぜんであるが、信心の立場から拝するならば、自分自身の生命の仏界の存在を、仏の悟りのうえからお示しくださった重要な経文である。
3  少々むずかしい論議になるが、総本山第二十六世日寛上人は、なぜインド応誕の釈尊の説いた方便品・寿量品を読誦するのかということについて、方便品は所破・借文、寿量品は所破・所用という説明をお示しになっている。ともかく南無妙法蓮華経という日蓮大聖人の大仏法を根本としての方便品であり寿量品であるということを知っていただきたい。
4  南無妙法蓮華経というお題目は、全宇宙すべての根源の法である。すなわち、日蓮大聖人の仏法それ自体の大法である。この日蓮大聖人の仏法が開かれて、三大秘法となり、八万法蔵となっているのである。
 換言すれば、インド応誕の釈尊の教えをはじめ、いっさいの仏教は、この一大秘法の南無妙法蓮華経を志向し部分部分の法理を説明したものにすぎないのである。
 ゆえに、ただ御本尊に向かって南無妙法蓮華経と唱えることが、仏法の根本中の根本であることを忘れてはならない。
5  次に御観念文について申し上げれば、初座は諸天善神も、南無妙法蓮華経によって威光勢力を増すものである。南無妙法蓮華経を日夜唱えているわれわれを、諸天善神は陰に陽に擁護してくださっている。これは仏法の約束である。この日天・月天・大明星天等の諸天善神に、ますます威光勢力をまし、守護していただくために題目の法味をさしあげるのが、初座の荘厳な儀式なのである。
 二座においては、一閻浮提総与すなわち全人類の平和と成仏をもたらす本門戒壇の大御本尊は、富士大石寺の正本堂に厳然と御安置されている。
 三座は、御本仏日蓮大聖人に対する御報恩感謝、ならびに日蓮大聖人の仏法を血脈相承なされ、現在の富士大石寺を御開基なされた第二祖日興上人に対する御報恩感謝である。さらには、第三祖日目上人をはじめ唯授一人の血脈をうけられた、正法の正師であられる歴代の御法主上人に御報恩感謝申し上げるのである。現在においては、ご存じのとおり第六十七世日顕上人猊下が厳然と受け継がれ、仏法の師匠としておられるのである。
 四座は、この大法が永遠の人類の幸福と平和のために、全世界に広宣流布していくことを祈願するところである。また、われわれの過去遠々劫の罪障消滅を祈念する御観念文である。
 五座は、先祖代々への追善回向を祈念するところである。また、最後の一文は、日蓮正宗を信仰している人も、信仰していない人も、またすべての存在を南無妙法蓮華経の力によって追善供養する御観念文である。まことに御本仏の御慈悲をひしひしと感ずる御観念文であるといってよい。
6  御書に「火の信心」と「水の信心」のことについて説かれている。「火の信心」とは、いちじは喜び、真剣に勤行をし、広布への活動をするが、やがて消えてしまうということである。これであっては真の信心ではないと大聖人は厳しく戒められている。すなわち「水の信心」でなければならない。水が間断なく清く流れゆくように、一生の信心であっていただきたい。その一生涯の信心が一生成仏につながることを忘れてはならない。
7  信心根本ということは、朝な夕な、御本尊に勤行・唱題することから始まる。わが身の生命の仏界を湧現することは、これ以外にできないのである。この勤行・唱題をいっさいの出発点として、そこから、日々の悲しみ、悩み、つらさをゆうゆうと乗り越えながら、自身を進歩向上させ、社会の重要な大樹になっていくことである。したがって、あせらずに、じっくりと、自分らしく歩んでいただきたい。また、イタリア人らしく陽気な人生であっていただきたい。
8  南無妙法蓮華経は大良薬である。御書には、土を食しながら生きる生命もある、鉄を食しながら生きる生命もある、風を食しながら生きる生命もある、人の生命を食らいながら生きる鬼神もある、と説かれている。しかし三世の諸仏ならびに諸天善神は、真実の仏法の法味を食されていると仰せである。そして三世の諸仏ならびに諸天善神はすべて御本尊に具備されている。
 ゆえに真実の最高の幸福境涯を得るためには、御本尊に南無妙法蓮華経と唱えて祈る以外にないのであ。悪いものを食し、服してはならない。南無妙法蓮華経と唱えることによって、最高に生命の充実がなされるのである。
9  フィレンツェのこの緑の天地は、私にとってあこがれの地であった。それは「神」に縛られた時代より、人間復興への波をつくった震源地であったからである。このルネサンスは、文芸復興とも、人間復興ともいわれた。人間の自由、人間原点へのめざめとしてのまことに新しい時代を打ち立てた。しかし、この現実世界は再び行き詰まってしまった。そしていま再び、著名な思想家たちは、新人間主義、人間性革命、人間的革命をなさなけりばならないと提唱している。
 しかし、もっとも根本的に重要なことは、この人間原点を貫きとおす永遠不滅の南無妙法蓮華経という法をもってはじめて、真実にして、多くの思想家たちが理想とするその方途が明確に実現されていくことを知らなくてはならないということである。この法をもつかいなかがキーポイントである。
10  このフィレンツェの国土は、大学生、青年が多い。未来が楽しみである。それにしても思い起こすことは、二十数年前、数百人が集った学生部の結成大会において、私の人生の恩師である戸田第二代会長が話されたことである。「ここにいる半分は重役に、半分は博士に」と。このとおりに現在では多くの優秀な博士が育っている。また、社会の多くの分野で重要な存在として活躍していることも事実である。
 諸君もまた、学問に励んでいただきたい。いまは学問に励むことこそが大切な信心につうじることを忘れてはならない。信心の活動が根本ではあるが、いま学ばずして生涯を悔いてはならない。信心即せいかつ、信心即学問を徹底していただきたい。
11  私の入信は十九歳である。当時私は病弱であった。戦争直後であり、兄が四人、戦争にとられ、経済的にもたいへんであった。学校は、昼働きながらの夜学であった。しかし、広宣流布をめざしての信念は強かった。以来、三十数年、ありとあらゆる中傷、迫害をうけながらも広宣流布への信念は絶対に崩さないできた。また、少数の青年たちで、戸田第二代会長の指導のもとに、一日もかかさず前進に前進をしてきたつもりである。
 いま、イタリアの地にも、これほど多くの優秀な学生や青年が、仏法を学び、生命のルネサンスをめざしていることは、偉大な歴史となることを確信したい。
12  学生はいまのうちに真剣に勉強されたい。青年たちは、真剣に社会で働き貢献されたい。日蓮大聖人の教えには矛盾がないのである。偏頗な人生、偏頗な生活ではなく、すべてにわたっての矛盾なき法理のうえからの人生と生活をまっとうしていくべきである。まじめに信心、活動した分だけが自分の福徳となるのである。愚痴をこぼしたり、文句をいって信心をやめてはならない。自分が損するか得するかは、十年、二十年とたってみれば明確にわかるからである。
13  組織は大切であるが、組織の役職だけで信心は決まるものではない。役職は権威職ではなく責任職であることをご理解願いたい。役職をもった人も人並み以上にたいへんであると同時に、それだけの福徳があることは絶対にまちがいないであろう。
 だからといって、ただ役職に終始して純真な後輩をさげすむようなことは絶対にしてはならない。ともあれ、たがいに尊敬しあい、信頼しあい、励ましあって信心に励んでいただきたい。
14  太陽が昇れば地球は明るくなる。太陽の仏法を受持した人が、その一家に、その社会に、一人存在することによって、そのまわりの人々がその信仰の輝きの実証に、ひとつまたひとつ納得していくようにすることが大切である。そのひとつの偉大なる信仰という実在の小太陽が、あらゆる社会に、あらゆる世界に、力強く輝いていくところに、遠い道のようであるけれども、たしかなる広宣流布の伸展と、世界平和の光がともされていくことを知っていただきたい。したがって、数のみにとらわれるのではなくして、一人また一人が強盛なる信仰の旗を掲げ、光らせていくことが重要な課題であるといってよい。
15  日蓮正宗の私たちの運動は、この正法にもとづき、絶対平和主義に立って、平和の実現と文化の向上に寄与していくところにある。したがって戦争を阻止し、幸福と平和と文化の推進をもって、それぞれの家庭と社会の安泰を実現しゆくものである。それには、その基盤として日蓮正宗の法義伝統をあくまでもふまえていかなければならない。
16  この一九八一年(昭和五十六年)五月三十日は、さわやかな誓いの日となった。
 この日が五十年さきには、光り輝くよき日となることは絶対にまちがいないことをたがいに確信しあいたいものである。
 結論するに、信心の目的は、身体的幸福、精神的幸福、社会的幸福を樹立しながら、みずからの人生を、最大に生かし、飾りゆくところにあるといってよい。
17  イタリアの中心者であり、皆さまを指導してくださっている金田本部長のもと、このように発展したイタリアにも、近いうちに法人格がとれるということをうかがい、まことに慶賀にたえない。
 なお、宗祖日蓮大聖人第七百御遠忌の慶事の総本山大石寺に、イタリアからも代表の方々が登山されることをうかがい、まことにうれしいかぎりである。心から歓迎したい。さらに、青年、学生の代表を日本にご招待し、いちだんとこの大正法の研鑽と興隆のために第一回の研修をすることも考えている。

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