Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

西ドイツ信心懇談会 「生命の世紀」こそ全人類の願望

1981.5.18 「広布と人生を語る」第2巻

前後
1  ニコス・カザンザキスというギリシャの作家の言葉に「天国のドアと、地獄のドアとは隣り合っている」とある。たしかに人生は幸せでありたい。不幸であっては悲しいものだ。
 かつては「神」によってのみ幸せになれると信じられた時代もあった。時代は流れて、合理主義、物質主義が唯一の幸せの道と思われた時代もあった。しかし、さらに時代は流れて、いまやいっさいの価値観は、根本的に揺れ動いている。これほどのカオス(混沌)の時代は、いまだかつてない。
 ゆえに、いかなるドアをあければ幸福に、いかなるドアをあければ地獄に――という、明確なる原理、原則の法が要請される、重大なる時代に入ったといってよい。
 いまわれわれは、その永遠にして普遍の幸福を創出できうるドアを日蓮正宗に求めた。すなわち、宇宙根源の法を、そのまま御図顕あそばされた大御本尊に帰依することによって、確実なる実証を得ながら、その道を歩んでいるといってよい。その大御本尊まします日蓮正宗総本山大石寺が、その原点なのである。
2  日蓮大聖人の妙法は、万年にわたって人類の一人ひとりが、成仏という永遠にわたる仏界の生命、すなわち崩れざる幸福境涯を開き、確立していける大法なのである。その万年への妙法広布の第一歩を踏み出したのが、日蓮正宗創価学会なのである。
 ご存じのとおり、資本主義も行き詰まっている。社会主義も行き詰まっている。しかしわれらは、それぞれの体制をうんぬんしていくのではない。いかなる団体、いかなる体制の違う社会であろうが、そこに厳在する一人ひとりの人間を原点として光をあて、その一人の人間が、信仰によって身近な生活のうえに、社会のうえに、平和と文化のうえに、いかに偉大な価値を創造し、実験証明していくかにかかわっているのである。ともあれ、一人の人間を満ち足れる境涯にせしめえぬ「法」が、なんで世界の人々を救済できようか。
 要するに現時代にあって、いつまでも混沌の社会のなかにうずもれて、たしかなる信念の信条とすべき指導や哲学、いな仏法のドアを開くことを怠るとすれば、おおいなる人生の損失、世界の損失であるといってよい。
 日蓮大聖人の南無妙法蓮華経は、無間地獄への道をふさいでくださっている。また「天国」という空想的な論理ではなく、現実に仏界というたしかなる、清新な生命力に満ちみちた、明確なる人生道と幸福道と平和道を闊歩していける、道しるべなのである。
3  ドイツにおいて、人柄のよい、真面目な信心のペーター・キューン理事長を中心として、約千人の地涌の友が集ったとうかがっている。このように、今日までの基礎を築き上げた理事長らに深く敬意を表したい。(拍手) 
 理事長はごらんのとおり、精神的にも物質的にも、境涯という次元からみても、皆さんのリーダーとして、また信仰の証明者としても、まことにふさわしい人であると、私は思っている。
4  さて、具体的な話を進めたい。とくに欧米においては、離婚の問題が多いようである。メンバーのなかにも、多少なりとも離婚についての相談があるという。私どもはプライバシーについては、深く立ち入ってはならないし、干渉めいたこともできない。また、される必要もないし、することもない。ただし、他人の不幸のうえに、自分の幸福を築いていくといういき方は、仏法にはないということを申し上げておきたい。
 ともかく、解決のために、おたがいによく話あい、また真剣に唱題し、どこまでも子供等、将来のことを考えて、できうるかぎり歩み寄っていく努力をお願いしたいものである。
5  ここでリーダーとして心がけていただきたいことがある。それは悩める友が相談に来た場合、リーダーは、その人の人格、人権を尊重して、相談の内容をけっして他言してはならないということである。その人のプライバシーを、さも知ったげに、他人に軽率に語るようなことが、もしあったとしたら、信頼を失い、幹部として失格してしまう。このことは、日本においても、どこの国においても、リーダーの条件として厳守すべきである。
6  人間の感情からみるならば、組織というものは、あったほうがいい場合と、ないほうがいい場合とがあるかもしれない。しかし、組織は、国家でも、団体でも、会社でも、その目的のために欠かせないのが現状であろう。そして、社会が複雑になればなるほど、組織がより必要となってくるものである。
 同じように、日蓮正宗創価学会という教団には、信行学の推進と広宣流布の拡大の手段として、組織はなくてはならないのである。
 いま皆ともが信仰できたのも、組織があっての結果だと思う。多数の人が秩序ある前進、運営をしていくためにも、組織は必要であるし、それがない場合、独りよがりで独善的な、いわゆる仏法で説く我見におちいり、正しい信仰、正しい行学、妙法を基盤にした社会と生活の正しいリズムが生じなくなってしまう。
 とにかく一人だけでは、信仰の正しいあり方がわからなくなってしまうものである。大勢の人々のなかにあって、正道へ励ましあい、退転を戒めあい、勇気ある人生を守りあうことが、いかに大切であるかを知るならば、手段としての組織が必要にならざるをえないと思っている。
 ここで大切なことは、組織は手段であり、個々人の信心の向上と幸福への指導が、組織の出発点であることを忘れてはならない。あくまでも目的は一人ひとりのメンバーの絶対的な幸福、つまり成仏にある。ゆえに一人ひとりが尊敬しあい、また社会の一員として理解しあい、よりよき人生のためへの指導を心からお願いしたい。
7  日本の文化とドイツの文化は、とうぜん異なっているし、風習も伝統も同じくことなっていてとうぜんであるといってよい。私どもは、あくまでもドイツの文化、風習、伝統を尊重する。皆さんも、日本の文化を無理にうけいれる必要はないと思う。ただ一点、信仰の根本義に関してだけは、日蓮正宗の伝統法義を尊重していくべきである。あとは、自国の風習、伝統にもとづいて、自由であっていただきたいのである。ドイツの皆さま方が、よき市民として、よき社会人となることがまず大切であり、われわれは、その信仰上の先輩として、応援をさせていただいているのである。あくまでもドイツ人であるキューン理事長を中心に広布の推進をお願いしたい。
 ユーモアをふくんで申し上げるが、かつて日本とドイツは同盟を結び、暗い時代をつくってしまった。日本人とドイツの皆さまは、ここにいま平和のためへの信心の同盟を結んで晴れやかな前進をお願いしたい。(拍手) 
8  次に、朝晩の勤行について、申し上げておきたい。
 たしかに御経文は長い。仕事が多忙で、方便品、自我偈、題目だけのときもあるかもしれない。五座三座の勤行がまったく正しいあり方なのであるが、ともかく御本尊への祈りを途絶えさせずにおこなっていくことをわすれないでいただきたい。
 つまり水の流れるような持続の信仰でなければならない。ともかくも立派な勤行・唱題をしぬいていった分だけ功徳があることを忘れないでもらいたい。
 南無妙法蓮華経、または御経文、御観念文の意味がわからなくてもよいかとの質問がときにある。たしかにむずかしくてわからない場合があるかもしれない。
 しかし、こういうことはいえまいか。たとえばラテン語の意味がわからなくても、ラテン語をおそわり、ラテン語を知っている人に向かってかたれば、意思はつうじるものである。
 御本尊に祈るということは、日蓮大聖人に祈ることである。しかも日蓮大聖人は、宇宙全体に通達された御当体であられる。ゆえに、たとえくわしい意味はわからなくても、御観念をすれば、その祈りは、そのまま御本尊へ宇宙へとつうじていくのである。
 意味がぜんぜんわからなくても――日本人でもわからない人はいます(笑い)
 ――真剣な祈りは、正しい生命のリズムとなって、宇宙のリズムと合致し、その結果として、功徳もわき、生活のうえの力もでてくることは、仏法の原理なのである。
9  日本では、今年を「青年の年」と銘打っている。ドイツにも優秀な青年が多数おられるのを拝見してうれしく思う。
 第二次大戦後の焼け野原で、学会の再建が着手されたころ、私は二十代の青年であった。当時は、一握りの青年しかいなかった。そのなかで退転し、去った人もいた。残った青年たちは、人生の師である戸田第二代会長の指導のもと、日本の広布を大きく推進してきた。難もとうぜんあった。それを覚悟のうえで乗り越え、今日では広布の基盤は揺るぎなくできあがり、大仏法は世界へと広がったといってよい。(拍手)
 どうかドイツの青年諸君も、この大正法を固き信念として、さらなるドイツの平和と文化と繁栄に貢献するために、立ち上がっていただきたいと思う。ここに最高の人生があり、最高の青春があると申し上げたい。仏法には、いわゆる犠牲はない。因果の理法で、すべてが自身の福徳と飾っていけるものなのである。
 当時の日本の一握りの青年同志は、第四代の北條会長であり、森田理事長等であった。わずかな青年ではあったが、使命を発条としたとき、どれほど偉大な力が発揮されるかを知ってもらいたい。
 ときにはお金もなかった。おなかもすいた。また私は体も弱かった。しかし信心の凱歌を、このように仕上げることができた。
 ドイツの青年諸君も、ドイツのため、信仰のいかに偉大であるかを、この世で発揮し、証明してもらいたいことを願っている。(拍手)
10  かの有名なダンテは『神曲』を著した。それは、神を中心とするコスモス(宇宙)である。彼は天才であったが、その宇宙観は、六界の城を出なかった。仏法で説く、十界、三千世間と展開していく一念三千論には、とうていおよびもつかなかったのである。この神中心の世界は、やがて民衆の心から離れ、消え去っていった。
 ダンテの”神の時代“が終わって、ここフランクフルトの地のゲーテが出現し、大著『ファウスト』を残した。彼が、かつての「神」にかわって「人間」というものに、重点を置きはじめたことは、よく知られているとおりである。
 彼は『ファウスト』のなかでバイブルの有名な「太初に言葉ありき」との命題を大転換させた。それは「太初に行為ありき」と断言していったことに明確なのである。詳細は省かせていただくが、このゲーテの思想を貫くものは、遠くにあって人間を支配する神のような存在ではなく、いっさいの根本は人間自身なのである、との宣言であった。近代思想の大きな流れは、この人間主義に始まったといってよい。
11  とするならば、最極の人生というものは、じつに永遠にして不滅の大法を受持し、みずからが原点であるとの立場から、社会への行動をなしゆくところにあるともとらえられるのである。ゆえに、信心即生活が大切であり、社会への貢献の行動が大切となるのである。ここに価値ある最極の人生の原点があることを忘れてはならない。
 たしかにゲーテは「人間」に光をあてた。しかし、その人間の内実を、明確に解明しきってはいない。また、その人間と宇宙の法則との関連性も不明確である。それゆえにね人間と生活との不即不離の源泉力に到達せず、それを具体的に論ずることもできなかったといってよい。すなわち、日蓮大聖人の仏法で説く、完璧な生命観、社会観、宇宙観のような完全なる指標は、まったくなかった。
12  人間が原点であるということは、今世にかぎられているといってよい。生命は永遠なのである。その永遠なる生命のうえに立ち、今世の人間としての役割をいかに充実させ、生きる発条とさせていくかが、「生命の世紀」なのである。われらの大運動の一つの本義は、ここにあるといってよい。この「生命の世紀」こそ人間が哲学的な流れからも思想的な流れからも、宗教的な流れからも、願望してやまないところであると、私は確信しているものである。
 ともかく、それを簡潔にいうならば、運動の第一義は、信行学にある。それが、人生即仏法、信心即生活、さらには信心即社会への活動のリズムにはいっていく運動といえるのではないだろうか。
13  御書には「相如是が第一の大事にて候へば仏は世にいでさせ給う」と仰せである。これをその人の生活上の立場から拝すれば、方便品で説く十如是のなかでも、相如是から始まっており、これこそもっとも大切なのだ、と仰せなのである。
 真実の信仰者としての振る舞いをしているかいないかは、如是相で厳然とわかってしまうものだ。また怒りの人、ねたみの人、愚痴の人すべてが如是相でわかってしまうものである。ともかく、信心している人の姿を見て、多くの人が入信を考えたり、決意したりする場合が多いことは、おわかりのとおりである。その反対の場合もあるであろう。あるいは、理論的に入信する人もいるかもしれないが、なんといっても重要なことは、その人の如是相にあるといってよい。
 リーダーの確信、リーダーの包容力、それもまた如是相で、リーダーによって人々が安心したり、不安になったりする場合もあるにちがいない。一人ひとりが福運に満ち、誠実さにあふれ、人々から信頼される如是相であっていただきたいと思う。
14  この会館の庭にある大桜を”ドイツ広布桜“と命名させていただいた。樹齢は数十年であるにちがいない。根深きがゆえに枝茂く花もおおいにさくにちがいない。
 信心の世界もまた同じである。おおいに仏種が根をはり、道理としてその根が福徳の大樹となり、福運の花となり、実となる、所願満足の人生であっていただきたい。ともかく信心の根を、いかなるときにあっても切ってはならない。
 ドイツ日蓮正宗も二十年の根をはられた。次は二十五年を目標に、仲良く、よき人生を歩んでいただきたい。今秋には宗祖日蓮大聖人第七百御遠忌を慶祝して、総本山の参詣に多数の方々がおいでになることを聞き、心から歓迎申し上げる。皆さま方のますますのご多幸をお祈り申し上げ、私の話とさせていただく。

1
1