Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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福井県代表者会議 確固たる自分自身を築け

1981.11.24 「広布と人生を語る」第2巻

前後
1  いくたびかお約束をしながら、福井には八年ぶりに訪問できた。また武生文化会館には初訪問でき、やっとお約束をはたすことができて安堵している。長いあいだ、皆さまにご苦労をおかけし、心から申しわけなく思っている。どうか、小杉県長、森岡県青年部長のコンビで、新たなる福井の広布への歩みをはじめていただきたい。
2  何があっても信心だけは破られてはならない。信心をたもちぬいた人が人間として勝利者なのである。
 また、確固たる自身の確立、聡明なる自身の確立、正しい意見のもてる自身の確立をお願いしたい。そうでないと、すぐに付和雷同となってしまうからだ。
 御書にも、寿量品の自我偈の経文について「自とは始なり速成就仏身の身は終りなり始終自身なり」と仰せであり、別しては日蓮大聖人御自身、総じては信心修行する者の自身の生命をあらわされている。すなわち”自身”が大事なのである。正邪を深く見きわめ、確固たる自分自身をもつ人は、つまらない世評には紛動されないものだ。その根本が信心なのだ。
3  社会というものは、地道に進んだ人が最後には勝っている。派手に、華やかに見せている人は長続きするものではない。たとえば、もっとも地道にして、確実にして、おおいなる恩恵を人類にあたえているのが太陽である。雨の日であれ、曇りの日であれ、東より西へと照らしゆく軌道はすばらしい。信心、生活も同じなのである。
 御法主上人猊下に随順しない人は、どのような理由があるにしても、もはや正宗の僧俗ではない。これほど根本的な誤りはないからである。この地にも理想的な僧俗和合をお願いしたい。
4  最後に御書の一節を拝したい。
 「夫れ浄土と云うも地獄と云うも外には候はず・ただ我等がむねの間にあり、これをさとるを仏といふ・これにまよふを凡夫と云う
 「瞿伽利尊者くぎゃりそんじゃは智慧第一の舎利弗に悪名を立てき
 「世末になりて候へば妻子を帯して候・比丘も人の帰依をうけ魚鳥を服する僧もさてこそ候か、日蓮はせる妻子をも帯せず魚鳥をも服せず只法華経を弘めんとする失によりて妻子を帯せずして犯僧の名四海に満ち螻蟻をも殺さざれども悪名一天にはびこれり
 健康と長寿と無事安穏の連続のための信心であり、生活であることを願ってやまない。

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