Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第4回NSA信心懇談会 「仏種」を見事に育てあげよう

1981.3.8 「広布と人生を語る」第1巻

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1  世界に影響をあたえた宗教、思想、哲学の大河の流れは、仏教、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、あるいはヒンズー教であり、近年にいたってはマルクス主義を中核とする思想、哲学であった。これらを大河とすれば、その他のさまざまな宗教、哲学、思想は、極言すれば支流といってよい。しかし、人間にも草木にも家屋にも、寿命の長短があると同じく、宗教、思想、哲学にも、人類にどれだけ影響をあたえていけるかの寿命があるのである。
 インドの応誕の釈尊は、みずからの弘法を二千年にして「白法隠没」とその寿命を予言している。次は、日蓮大聖人の仏法が出現し、末法万年の闇を照らすのである。さきほど申し上げた宗教、哲学も、今日の混迷人類には、その力は夕日のごとくなっていることは、皆さまも実感しているにちがいない。ここに、太陽の仏法である日蓮大聖人の大白法が、末法万年への一切衆生の成仏と全人類の平和創造のためにすでに存在することは、皆さまが御書に照らし体得しておられるとおりである。
2  欧米のキリスト教の信徒のあり方と、仏教のそのあり方について、概観的にお話をしたい。この点について論ずると、膨大な論議が展開できようが、簡潔にその結論だけを示したい。
 キリスト教の信仰の方式は、罪を犯したときに協会へ行く。そこで牧師、または神父に、その罪を告白し懺悔する。懺悔が終わって、その罪が許されたとして、教会によってはロウソクなどを持って礼拝に行くという。したがって、信者にはいわゆる毎日の自宅における礼拝はなく、教会中心主義で、日曜日に教会へ礼拝に行くという習慣は慣習として、行きたいときに行けばよいということになる。
 それに対して、日蓮大聖人の仏法は、御書に「受くるは・やすく持つはかたし・さる間・成仏は持つにあり」と仰せのごとく、一生涯、この三大秘法の御本尊を信受し、信行学に日々、励んでいくことがその根本である。
 キリスト教では、その信仰によって、神に近づくことはできるが、神にはなれない。仏法は「受持即観心」で、わが胸中の仏界を湧現し、総じては信心ある人はみな、成仏できるのである。
3  動物も草木も宗教をもてない。人間だけが、この不可思議な生命、宇宙観、永遠観、人生観を探究せんとする智恵と英知をもっている。そこに宗教の発生があり、それを追求、自覚しようとする絶えざる努力をしてこそ、そこに人間としての証がある。ゆえに、正しい宗教を求め、正しい信仰の道を歩むことが、人間としてのたしかなる最極の証といってよい。
 皆さんは、このアメリカの国土において、伝統、慣習、民族の相違を超えて、日々、朝な夕なの勤行・唱題という持続の修行をし、真実の仏法の偉大さを知りつつ、生活のうえに、人生のうえに、現実的に深い因果の実証を示していくことが大切なのである。
 仏法は道理である。生まれた子供には、毎日、ミルクをあたえなくては育たない。草木も水がなくては生長しない。と同じく、日々の生活を充実させる原動力である朝晩の勤行・唱題を持続しいくことが大切である。どうか粘り強く、現実の社会という大地に幸福という根をはっていくために、毎日“大良薬”である南無妙法蓮華経を唱えていただきたい。
4  信心していなくても、健康な人もいるし、財産家もいるではないか、との批判があるかもしれない。しかし、健康であり、財宝が多量にあったとしても、今世かぎりのもので、永遠にそれらを持続できるものではないのである。また、財宝を多量にもっているがゆえの執着と不安の交差する心の世界が、かえって不幸の種を生み出しているかもしれない。社会的に有名となった人も、権力者も、また同じといえまいか。
5  仏法に「仏種」という言葉がある。御本尊を信受したてまつり、南無妙法蓮華経と唱えることは、生命の仏種を植えたことになる。その常楽我浄、所願満足のための種を成長させていくために、信行学の実践が必要となってくる。その過程にあって、嵐があったり、風雪もあるかもしれない。大樹が風雪に耐えて厳として大地に根をはり、天空にそびえていくように、仏法の信仰による成長の過程にあっては、三障四魔という嵐が吹く。しかし、それらに絶対に紛動されず、人生の完成へ向かって仏種を大樹に育てていかなければならないのである。
 人間も生まれて以来、熱を出したり腹痛をおこしたりしながら生きぬいていくものである。同じく成仏への大樹も、さまざまな宿命転換をなしながら、見事に成長させていかなければならない。しかも二十歳前後にならなければ社会的に通用しないのと同じく、信心の年輪も、一つの節を二十年、次は三十年と目標を決めながら、時の年輪を刻んでいただきたいのである。「顕益」と「冥益」という言葉がある。日蓮大聖人の仏法の大道は冥益である。その冥益の土壌のうえに顕益はあるのである。
 冥益は一生、永遠にわたる福徳、功徳をつんでいくことである。自動車を買った、家を新築した、給料があがったということは、たしかに顕益ではある。しかし、生涯にわたる冥益という大土壌の原理を知らずして、物質的、形式的な面のみをみて、その人の信心をはかってはならない。
 冥益は、たとえていうならば大樹の幹であり、根である。冥益という幹を太らせ、根をはることが大切であって、顕益という枝葉のみをみて、早計にその人の信心を判断してはならない場合もあろう。いわゆる永遠の根と幹を、自己の生命に拡大していくための信心こそ、冥益ともいえまいか。まして物質的な現象の有無を短絡的にとらえて、御本尊を疑ったりしては絶対にならないのである。
6  次に組織は、あくまでも人々を御本尊へ導くためのものであり、広宣流布を拡大していくためのものである。役職をもった幹部は信心を導く兄であり、姉のような存在であるべきで、役職が権威となってはけっしてならない。そのような錯覚をおこすと、かならず信心が硬直し、本来の目的でありる広宣流布の清流を濁らせたり、堰止めたりしてしまう。これでは謗法になってしまう。
7  御書に「月月・日日につより給へ・すこしもたゆむ心あらば魔たよりをうべし」と仰せである。
 きょうよりはあす、今年よりは来年と、自己自身が進歩、生長することは大切な人生のあり方である。そのため日蓮大聖人は、この正しき御本尊に南無して、正しき信行学をもって、悔いなき最高の成仏への直道を歩みゆけ、と仰せである。すこしでも退する心、疑う心をもってすきをつくると、そこに不幸という嵐に、仏種を流されてしまい、後悔の涙を流すことになる。そのようなことは断じてあってはならないとの戒めである。
 ゆえに信心は、勇気をもって持続していくことが肝要である。たとえば、職場でも、その職務をおろそかにすれば人々におくれをとってしまう。研究者もスポーツマンも、すべてその道にあって、たゆむ心があればすきに乗じられ、本来の目的を逸してしまう場合がある。
8  なお、これからはとくに家庭指導、生活指導をとおしての「相談」が必要であると思う。独りになって、この大切な人生を思い悩ませていてはならない。それではかわいそうである。信心のこと、生活のことで困ったり、悩んでいる人がいたならば、先輩の方々はよく相談に応じてあげていただきたい。また、遠慮なく相談していただきたい。とくに悩み多きわれわれは、自分のつごうのよい答えを出してくれる人のところにのみ相談にゆきやすいものだ。そうではなくして、厳しくもあたたかく指導してくれる先輩を、一人でも二人でもかならずもたなければ損である。
 最後に、皆さま方とお約束したとおり、次回は六月におじゃましたいと思っている。すばらしい人生を一歩前進させるために、また、すばらしい一歩前進の信心をお願いして、懇談会を終わらせていただく。(マリブ・トレーニング・センター)

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