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日蓮大聖人・池田大作

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パナマ信心懇談会 良き市民として立て

1981.2.24 「広布と人生を語る」第1巻

前後
1  七年ぶりに貴国を訪問し、その見事な発展ぶりに驚いた。とくに、日蓮正宗創価学会・デ・パナマ(NSAP)の健全なる信心の前進に、心から敬意を表したい。(拍手)そして、皆さまのこれまでの苦労に対し、讃嘆の言葉を贈りたい。
 なかんずくチュー理事長ご夫妻のご功績、ならびに幹部の皆さまのご尽力に感謝したい。また、日パ親善文化祭の大成功を心よりお祝いする。この模様は、聖教新聞ならびに映画で各国に広く紹介されるであろう。
2  昨日、ロヨ大統領と会見した。パナマの未来を象徴する若きリーダーであられた。彼は――経済の繁栄、いわゆる物質文明の繁栄には、それを補い、正す宗教が必要である。いま、わが国は、仏法を大歓迎する。これ以外に、わが国の発展はない、と強調しておられた。(拍手)
 また、昨日、私どもの運動が理解され、パナマ市より名誉市民の称号と市の鍵をいただいた。(拍手)すべてチュー理事長ご夫妻はじめ優秀なるNSAPの皆さまのご努力のたまものと感謝したい。私も今後さらに、仏法を基調として、平和、文化に貢献することをお約束する。
3  ただいま、チュー理事長のご両親、ならびにNSAPの皆さまの先祖代代の、追善のための勤行・唱題をさせていただいた。
 大聖人の仏法は、生死不二である。御本尊に唱題していくならば、生きているこの身も成仏できる。これが「生」の成仏である。また、御本尊に、いまは亡き先祖への回向の唱題をしていくならば、仏果を成ずる。これは「死」の成仏である。まことに不可思議な力のある御本尊であり、題目なのである。
 万物のなかで、信仰ができるのは、人間だけである。その人間の人間としての生活と社会と宇宙を貫きとおす法則、そして、進歩、幸福、生きがい、安隠をもたらす法則が、妙法であるといってよい。
4  この宇宙には、さまざまな種類の伝波がある。それらはわれわれには見えないが、特定の受信装置を媒介にすれば、それぞれの伝波を音として、また映像としてとらえることができる。と同じように、この宇宙のことごとくの運行、現象をひきおこす根源の力として、妙法がある。その妙法という法を、一幅の御本尊として御図顕あそばされたのが、日蓮大聖人である。
 この三大秘法の御本尊は、総本山富士大石寺に厳然とましまし、七百年の伝統を経て、いま、第六十七世御法主日顕上人に付嘱されている。その御本尊を御書写されるのは、御法主上人猊下御一人であらせられ、それがいま、皆さま方が信受したてまつる御本尊なのである。
5  そこで、勤行し唱題しゆく理由は何か。
 生命は、無始無終である。すなわち、過去より、現在、未来へと、それぞれの宿命、宿習、因果の法則のままに、旅していかなければならないのである。その因果の法則によって、あるときは人間に、あるときは他のさまざまな生命になると、仏法は説いている。
 御書に「過去の因を知らんと欲せば其の現在の果を見よ未来の果を知らんと欲せば其の現在の因を見よ」と仰せである。
 いまが因であり、果である。この因果倶時不思議の一法を妙法としてあらわされたのが、日蓮大聖人の仏法である。ゆえに、御本尊に唱題することによって、幸福へ成仏へと歩んでいける本因をつくることができる。そのために勤行・唱題が必要なである。
 水道管があるとする。長いあいだ使わなければ、さびて水がにごってしまう。すなわち、宿命におおわれた人間の不幸な姿にたとえられよう。われわれの生命は、過去遠々劫、何億何万年という長いあいだにわたってにごり、宿命を背負っている。
 それを、信心唱題によって、毎日、生命という水道管に水を流していけば、はじめはにごった水がしばらく流れるが、やがて清らかな水に変わっていくように、宿命転換していくことはまちがいない。そのために、勤行・唱題をたゆまず続けていくことが必要となるわけである。
6  なぜ、折伏をするのか。それは日蓮大聖人の眼目は、一切衆生にこの妙法を受持させ、題目を唱えさせて、成仏させていくことである。そのために、みずから折伏を行じられた。私どもも門下として折伏・弘教に励むのは、とうぜんのことといってよい。
 さまざまな角度から論じられるが、日蓮大聖人の仏法は、あくまでも実践である。折伏を行じることが「如来の使いとして如来の事を行ず」ることになり、胸中の仏界を厳然と湧現していく原動力になるからである。わが身の宝塔を題目の力によって開き、ともに人の宝塔をも開いていくことは、折伏の実践によってのみできうるとの、大聖人の仰せなのである。
 たとえば、樹木は大地にしっかりと根をはって、大きく育つ。根をはるのにあたるのが題目である。しかし、家の中では強く育つことはできない。太陽にあたり、風にあたり、雨にあたってはじめて、たくましい大樹になることができる。
 と同じく、社会のなかで、人々のなかで、折伏・弘教に励む実践は、自己が雄々しき大樹と育ちゆく、不可欠の条件であるといってよい。
 また樹木は、生長の糧として太陽の光を、水を、空気を必要とする。人間は、もっと複雑、微妙であり、生活、家庭、社会等々、さまざまな複雑さのなかでもまれながら生きぬいていかなければならない。そのなかにあって、人間としての完成に向かう、たしかなる大道の骨髄こそが、信行学なのである。
 子供が川に落ちたとする。その子を救おうとする犠牲的行為は、一種の菩薩界の一分であり、善である。これを知りながら、見捨てれば、無慈悲であり、悪である。と同じく、その人のもつ仏性を、顕現せしめんとする勇気ある行為は、最極の善であり、わが身の菩薩界、仏界の境界への確立へつらなっていくことはまちがいない。
 ゆえに勤行・唱題はとうぜんとして、折伏の実践こそ、御本尊への信心の厳たる刻印となり、これ以上の功徳善根をつむ作業はないのである。
7  この信心、唱題、折伏・弘教の実践のない人は、真実の仏法の大良薬の醍醐味を知ることはできない。まず、唱題、実践をお願いしたい。
 たとえば、その快適な乗り心地を味わうことはできない。同様に、信心を正しく深く広くしていくために、信行学という基本の実践をどうか忘れないでいただきたい。
8  妙法には行き詰まりがない。その妙法と冥合していく信心の強い一念に立つならば、絶対に行き詰まりのない人生へと転じていけるのである。ともかく、御本尊は絶対であられる。その絶対なる法に、信伏随従していくところに、凡夫であるわれわれにとってのいっさいの神髄があるといってよい。
9  いっさいの幸福の基盤は、家庭である。したがって、信仰の世界にあって多くの人々のために活躍するとともに、よき夫であり、よき妻であっていただきたい。ともに、唱題根本に、子供の教育にも力をそそぎ、そしてうるおいのある家庭を築いていただきたい。
10  これはよけいなことかもしれないが、信心は即生活であり、それを乱されぬよう注意していただきたい。日本の青年でもよくあるが、酒におぼれると勤行ができなくなる。勤行しなくなると堕落して、また避けを飲む。そして、その結果、失敗して同志に多大な迷惑をかけながら堕ちていった人もいる。このような悪循環を正常なリズムにもっていく力こそ、妙法への信仰であり、人間革命の姿なのである。優秀なパナマの青年は、どうかお酒で失敗しないでもらいたい。
11  パナマとは、現地語で、たくさん魚がいる、たくさん花がある、との意味であるとうかがった。この地で確固たる生活力をもち、立派な社会への貢献をなしゆくために、みんなで励ましあい、助けあい、楽しくも価値ある人生の凱歌をあげていただきたいことを祈っている。
 秋には、宗祖日蓮大聖人七百御遠忌慶讃登山のため、総本山へ参詣されるとうかがった。心より皆さまの来日をお待ちしている。

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