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日蓮大聖人・池田大作

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日蓮大聖人御聖誕記念勤行会 人生凱歌のための信心を

1981.2.16 「広布と人生を語る」第1巻

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1  私が高い壇上からお話するのは、私が偉いのではなくして、皆さん方が見えないからです。(笑い)
 きょうは、宗祖第七百御遠忌の年の、日蓮大聖人の御聖誕の佳き日である。また、御法主日顕上人猊下より「世界平和広宣流布大願成就」の常住御本尊を御下付していただいて一周年の記念すべき日でもある。私は、この佳き日、この常住御本尊に、皆さまとごいっしょにご祈念唱題できて、たいへんにうれしい。
 けさのロサンゼルスの空は青く澄み、花が咲き始め、ほんとうにすがすがしい朝であった。日蓮大聖人の御聖誕を諸天も寿ぐすばらしい日であった。この思い出は、私の胸に永遠に残るにちがいない。
2  ともかく、私どもは、御本尊のもとにすべて平等である。すべてのメンバーは、だれ人たりとも大聖人の子供であり、門下であり、信徒である。
 しかし、現実の問題としては、大勢のさまざまな人がいるので、しぜんに組織が必要となってくる。また、その組織に中心者がいなければ、烏合の衆になってしまう。国家にも、あらゆる機関、社会にも、また家庭にも、中心者がいる。いまは、家庭の中心者は、父のなか、母のなか、わからないが……。(爆笑)
 社会は複雑になればなるほど、進歩していけばいくほど、一つの秩序と安泰のために、組織がしぜんに必要になってくる。NSAも、同じである。広宣流布という崇高な大目的をもったとき、御本尊を根本として、それぞれの地域の中心者がどうしても必要になってくる。
3  御本尊は絶対であり、完璧である。しかし、それぞれの中心者には欠点がある場合も、未熟な場合もある。ときによっては、その中心者の生活がたいへんなときもあろう。しかし、その中心者の姿を見て、退転するなどはもっとも愚かである。私どもは、中心者のもとに、目的である信心と広布を進めていけばよいのであって、中心者を批判して、そのグループが信心の前進をなくしてしまっては、すべてが損失であるからだ。
4  指導の根本は、御法主日顕上人猊下の御指南を拝しながら、御本尊へ御本尊へと導き、幸福へ幸福へと指して導いていくことが肝要である。それゆえに、中心者の批判に終始しては何の価値もない。どうか中心者をたがいに支えながら、目的のために励ましあい、守りあって進んでいただきたい。
 モーターボートに十人が乗ったとする。その運転は、運転技術をもち、目的地をよく知っている人にお願いしたほうがよい。組織の場合も、また同じである。信心の体験を豊かにもった先輩に、運転してもらい、進んでいったほうが賢明である。
 時の流れとともに、先輩から学んだ仏法と信心の力をもった後輩が、やがて次の中心者となって、そのグループの運航の舵をとってもらえばよいであろう。
 皆が好き勝手にボートを運転したら、行き先もわからず、たがいに混乱してしまうだけである。
5  仏法では、正しい信心を教え、激励し導いてくれる人を「善知識」という。善知識の集まりを「和合僧」という。その和合僧を破壊していくものを「悪知識」といって、仏法ではいちばん悪としてきらうのである。
 インドの釈尊の場合は、釈尊をねたみ、苦しめた提婆達多が悪知識の代表であった。もったいなくも日蓮大聖人の時代は、大聖人を流罪、死罪にまでした良観ならびに左衛門尉が悪知識であった。時代は移り変わっても、この姿はつねに大なり小なりあるものだ。
 しかし、仏法は勝負である。悪知識に負けないで信心を貫くならば、みずからを仏にする作用があると、仏法では説いているが、悪知識にしたがえば堕地獄であると、御書には厳しく戒められている。
6  一面、信心は、人間として、人生を狂わせないためにあるといってよい。ある人は、麻薬に狂っている場合がある。ある人は、け事に、恋に、ねたみに狂っているかもしれあい。ともかく、人間は、複雑、微妙であり、たしかなる法則をもたなければ、自身の生き方に狂いを生じてしまうものである。この狂いが現実の人生における多くの不幸を惹起させている。
 そうならないために、私どもは、福徳への人生の羅針盤として、この信心をしているといってよい。大聖人は、ここにこそ、狂いなき真実の幸福、真実の人生の目的と生きがいを得られると仰せなのである。
7  その複雑多岐な社会に生きる自分自身の狂いというものを、正常の生命活動にもっていく根本法が妙法なのである。その妙法に日々、正信の勤行・唱題をしていくところに、まことの人生即幸福、信心即生活となり、現実のうえにその常楽我浄の実感を体得できうるのである。
 この勤行・唱題をしたときに、自身の生活のうえに不思議なるリズムと充実がわくことを、皆さん方はつねに体験しているにちがいない。反対に、これを怠ったときに、自分の生活のリズムにのらず、空虚で満ち足りない、まさに反価値としかいいようのない厳しい体験をした人は、このなかにもおられるのではないか。(爆笑、拍手) 
 これほど明確に、自身と生活と社会のうえに体得できる大宗教はないといってよい。
 いま、多くの宗教と名乗る宗教は、形式であったり、慣習、伝統のみであったり、観念、道徳のみであったり、生活からまったく遊離し、理論体系もなく、低級なものが大半であるといってよい。
 そのなかにあって、日蓮大聖人の仏法は、事実として、人類を救済していく大宗教であることは、皆さん方の知るところである。これこそ、日蓮正宗であり、NSAの信心といってよい。
8  たがいに職場をもつ身でありながら、多忙のなか、広宣流布へ日々、歩んでいることは尊い人生である。惰性と堕落の無目的の人生は、あまりにもはかない。つねに、自身の進歩、充実がなければ、人生の証とはいえないからである。
 この進歩、充実を最高に推進しうる最大の力が信心である。ゆえに、信心は、結局は自分自身の人生凱歌のためであり、一生成仏という目的に勇気と確信と希望をもって励んでいただきたい。
 そして、この大切な一生を、妙法を深く信受して、自分を愛し、家庭を愛し、またアメリカを愛し、NSAを愛し、堅実な歩みをもって、雄々しく進んでいただきたい。(サンタモニカ・世界文化センター)

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