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日蓮大聖人・池田大作

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アメリカ広布20周年記念シカゴ総会 教学の根本は「信」の一字

1980.10.12 「広布と人生を語る」第1巻

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1  われわれはなぜ御本尊をたもち、信心していくのか。それは人生を生きいきと楽しく、色心ともに豊かな日々を送るためである。御本尊に南無し、一生成仏と広宣流布に精進していったとき、人を心から愛せるようになり、人々からも「あの人の人生は何か輝いている」といわれるようになることは疑いない。
 一生は長いといえば長い、短いといえば短い。苦渋の一生を送る人もいれば、悲しみの連続の生涯もある。しかし、ただ苦楽にふりまわされていてはならない、と日蓮大聖人は仰せである。すなわち、自身にとって所願満足の悔いなき人生を飾るため、日々、題目をあげ、行学の鍛練をせよ、との御指南である。
2  なぜ教学が必要なのか、という課題について、きょうは静に語りあい、確認しあいたいと思う。
 宗教にはかならず教義がある。教義のないものは、真実の宗教ではない。またその教義がどれほど深く、道理に合致しているかによって、宗教の優劣を比較することができる。日蓮大聖人の本門寿量文底秘沈の大法こそが、最高にすぐれ、いっさいの人類を救いうる宗教であるということは、教学を深めれば深めるほど明確になってくるのである。
3  「一書の人を畏れよ」という格言がある。キリスト教には『バイブル』がある。マホメット教には『コーラン』がある。共産主義には『資本論』がある。われわれにとって根本の一書は『御書』ある。御書はいうまでもなく御本仏日蓮大聖人御自身の御執筆によるもであり、全宇宙総体を貫く根本の「法」を明らかにし、信心の正しい姿勢、実践を厳格にお説きになったものである。
4  御書を拝すれば、人法一箇の御本尊の総猊、永遠不変の「法」のいかに偉大であるかということ、大聖人こそ、その永遠不変の法と一体の御本仏であるという御内証が明らかである。さらに、この日蓮大聖人の大慈大悲の御立場から、邪宗教の破折、広宣流布の姿等々を教えられているのである。
 また、多くの人が我見におちいることなく、御書に照らして正しい信心を深めていくために、教学が必要になるといってよい。したがって教学は、信心の確信を強め、広宣流布を正しく志向していくためにある。
5  NSAもこれからは、多くの学者や科学者等にも仏法を知らしめる時代に入ったといってよい。そのときに、説得力をもつためには空仮中の三諦、法報応の三身、宗教の五網等、どうしても教学力が要請されよう。理路整然とした大仏法の教学を身に体したリーダーが、数多く要請される時代に入っていると私はみたい。
6  日蓮大聖人は、教学の必要性について、御書に次のとおりお示しである。
 如説修行抄「 此の書御身を離さず常に御覧有る可く」と、また諸法実相抄に「行学の二道をはげみ候べし、行学たへなば仏法はあるべからず」と厳然と示されている。また、日興上人の遺誡置文には「当門流に於ては御書を心肝に染め」ともある。
7  しかも「行学は信心よりをこるべく候」と仰せのように、どこまでも教学の根本は「信」の一字である。「信」「行」を忘れての教学では、何の功徳もない。いな、才智におぼれ慢心にってしまう場合もある。信と行の推進のための教学があくまでも正しいのである。
 仏教説話に「修利槃特」の話がある。
 御書に「すり須梨はむどく槃特は三箇年に十四字を暗にせざりしかども仏に成りぬ提婆は六万蔵を暗にして無間に堕ちぬ・是れひとえに末代の今の世を表するなり」と仰せである。
 端的に現代流にいえば、たとえ学問がなくとも、信心の強い人は成仏できる。反対に最高学府を出たとしても、自己の増上漫があれば地獄に堕ちてしまう、との譬えである。教学を学ぶ根本姿勢は「信」の一字が最重要課題であることを断じて忘れてはならない。
8  なお、日蓮大聖人の御書を拝するにあたっては、あくまでも御法主日顕上人猊下の御説法を中心として、よくよく拝していかなければならない。唱題し、布教に励み、さらに教学を学び、日蓮正宗の教義がいかにすばらしいものであるかを体得していただきたいのである。
 世界には百数十の国がある。日蓮大聖人の仏法は一閻浮提の仏法である。ゆえに私は、これからも四十億の人類の待つ世界への仏法流布に奔走できればと思っている。とくに、アメリカの大地にはお約束したとおり、たびたびおじゃまさせていただく。そして、ともどもに大御本尊の御威光に照らされながら、悔いなき信心で生涯をかざっていきたいものである。(マダイナ公会堂) 

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