Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

シカゴ会館での勤行会 「本尊」「祈り」「修行」について

1980.10.11 「広布と人生を語る」第1巻

前後
1  信仰にはかならず「祈り」がある。祈る対象があり、修行というものがある。これが宗教の宗教たるゆえんである。
 しかし、いくら祈っても幸福にはなれない、成仏できない、現実生活のうえに価値を生むことがないというのであれば、何の意味もない。また、その祈る対象の「本尊」が、根本として尊敬するものの本義からはずれたものであれば、信ずる人はまことに不幸といわざるをえない。
 ゆえに、祈る対象こそ宗教の根本命題である。信ずる人の人生を左右する最重要問題であるからだ。インド応誕の釈尊は、八万法蔵という膨大な教典を説かれたが、そこには宗教の浅深、高低が厳然とある。
 この八万法蔵の根本は法華経である。そして末法にあっては法華経の寿量文底の南無妙法蓮華経である。すなわち、三大秘法総在の本門戒壇の大御本尊なのである。
2  宗教批判の原理に三段、五重相対がある。この原理を、敷衍して拝すれば、ユダヤ教もキリスト教もすべて南無妙法蓮華経の一往の序分ともいえると思う。また結論していえば、あらゆる哲学者、聖人といわれる宗教家が追求せんとしたことも、日蓮大聖人の南無妙法蓮華経に近づかんとしたことといってよい。
 それぞれの宗教は、それぞれの時代にあって、それなりの文化を生み、民衆に影響をあたえてはきた。しかし、時代とともにそれら宗教の力は消滅し、末法万年尽未来際まで、この三大秘法総在の大御本尊による以外に、人類を根本的に救済できる法はないのである。
 たとえば、キリスト教では神に近づくことができるが、神にはなれないという。
 しかし、日蓮大聖人の仏法では、御本尊に強盛に祈るならば、わが生命のなかに幸福の宮殿、すなわち仏界が開くと説かれているのである。
3  第二十六世日寛上人は、この御本尊を信ずる者は「祈りとして叶わざるなく、罪として滅せざるなく、福として来らざるなく、理として顕れざるなきなり」(観心本尊抄文段)と仰せである。
 宗教は観念であってはならない。祈りが、現実生活と現実社会に、いかなる実証となって昇華していくか、その結果が問題になってくる。日蓮大聖人の仏法は「祈り」という原理にまったく矛盾がないのである。
4  次に、祈る対象である「御本尊」が最極の根本であることは論をまたない。
 御本尊とは根本尊敬の当体であり、御書に「功徳聚」とある。すなわち大宇宙を貫く根本の大法則の当体であり、宇宙全体の生命の力であり、いっさいの“財宝”がそなわっているという意味である。
 また「輪円具足」とも仰せられている。この日蓮正宗の大御本尊のみに、八万法蔵の膨大なる経々が完璧に包含されているといってよい。妙法こそ仏法の経王である。結論するに一切究極の根本である。
 日蓮正宗総本山大石寺におわします本門戒壇の大御本尊が、いっさいの根本である。われわれの拝受したてまつる御本尊は、血脈の付法の代々の御法主上人のみが、分身散体の法理からおしたためくださるのである。
5  次に、宗教には、かならず信を根本とした「修行」がともなう。まず勤行である。次に折伏であり、教学である。この信行学による修行を貫いていくところに、信心則生活の実証が得られるのである。
 ただし、正法には難がかならずあるものである。難を恐れては、信心は貫きとおすことはできない。釈尊も多くの難をこうむった。もったいなくも、日蓮大聖人も生涯、大難、小難の連続であられた。
 いま、凡下の私どもが日蓮大聖人の信徒として、人法一箇の御本尊の功力を人々に教える実践に邁進している。ゆえに、御書に照らして多くの難をうけることもまちがいないといえる。だが、それに耐えながら、妙法という「法」を第一義として、身軽法重の精神で進んでいくならば、すべてを開いていくことができるのである。

1
1