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日蓮大聖人・池田大作

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アメリカ広布20周年記念サンフランシス… 信心こそ人生の輝く勲章

1980.10.5 「広布と人生を語る」第1巻

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1  二十周年という意義ある本日、歴史的ともいうべき盛大なサンフランシスコの総会に私どもをご招待してくださり、一同を代表してつつしんでお礼申し上げる。
2  きょうは「幸福」とは何かということについて、おたがいに考えてみたい。
 アメリカでも有名な博士が先日、日本で講演した。今日までのアメリカは冒険的、自我中心的な民族的動向であったが、それのみでは行き詰まってしまった。真の幸福と調和は「人のために」ということを考えていかなければ得られないという傾向性が、アメリカの社会に強く出てきた。つまり“ミー・ゼネレーション”から“ユー・ゼネレーション”に移行してきたというのである。
 それに対して、大聖人の仏法は円教であり、まったく全人類に幸福への矛盾な志向性をつねに有している。“ミー・アンド・ユー”なのである。自身も幸福になり、他人をも幸福にし、社会をも安隠にしていくことのできる信仰の実践なのである。立正安国の原理がそれである。日蓮正宗の大御本尊を信受し、みずからの生命に仏界を湧現するとともに、多くの隣人にも同じく仏界を湧現させる、すなわち幸福をもたらしていくための実践が、折伏であり、弘教である。
 自身が幸福になるため、他人の幸福も願望する。自身のみ幸福であっても、国に災難があればその幸福も崩れざるをえない。ゆえに、私たちの運動図式は、みずからの幸福を築くと同時に環境をもリードし、またみずからも進歩していくというものである。
3  そこで折伏とは何か。
 教義的には深く論じられているが、結論していうならば、折伏とは誤れる宗教、思想を破折して、最極の仏法である妙法に伏せしめるとの意味である。端的にいえば、不幸の根源たる生命の魔性の要因を折り、正法に随順させゆく大慈悲の行為といってよい。そうできうる根本の力が南無妙法蓮華経なのである。すなわち御本尊に対しての強い信心によるのである。
4  日蓮大聖人の御書のなかで「立正安国論」は、もっとも重要な御抄の一つである。日本においてもアメリカにおいても、この原理は共通のものである。
 その立正安国論のなかに「謗法を禁ずる者は不退の位に登る」と仰せである。すなわち、謗法を禁ずる実践を展開し、折伏を行じた人が、「不退の位」に登ることができると御断言なのである。この不退の位という仏様にほめられる位は、人からあたえられるものではなくして、みずからの信心の強さによって得られるものなのである。
 別の御書には「一句をも人にかたらん人は如来の使と見えたり」とも仰せである。折伏に励む人は如来の使いとして、御本仏からおほめがある。これこそ私たちの最大の誇りなのである。
 また「法華経の功徳はほむればいよいよ功徳まさる」とある。
 私どもは欠点の多い凡夫であるが、大聖人の御聖訓は絶対なりと拝していかなければならない。
 功徳について御義口伝に「功は幸と云う事なり」、また「悪を滅するを功と云い善を生ずるを徳と云うなり」と仰せである。結局は唱題、折伏にいそしむ人が、いわゆる色心にわたって功徳を実感できることを忘れてはならない。
5  大聖人の仏法は、大御本尊に唱題すること、それから一言一句なりとも御本尊の功力を人に教えること、これが根幹であるといってよい。そしてその湧現した信仰の力をもって、現実の生活、現実の社会のなかで幸福の実証を示していく。この昇華のリズムのなかで信心を深め、自己を成長させ、生活を盤石に築いていくことが大切である。
 ゆえに、社会的地位や財産の有無にかかわらず、唱題と折伏の持続の人が、自身の生命に最高の栄誉ある勲章を輝かせることができると確信していただきたいのである。
 全人類は等しく御本仏日蓮大聖人の子供である。そのなかで、私どもは早くして御本尊を受持した最高の幸せ者である。大聖人の弟子であり、子供である私どもが幸福にならないわけが断じてない。それを確信して、悔いのない晴ればれとした人生をまっとうされんことを切に祈りたい。(ギャラリヤ・ホール)

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