Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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金の橋五たび  

1980.6.0 「広布と人生を語る」第1巻

前後
1  海よりも 大きな眺めがある。
 それは 空である。
 空より大きな眺めがある。
 それは 魂の内部である。
2  これは、文豪ビクトル・ユゴーの言葉であった。革命作家の巴金氏も、対談のなかでユゴーが好きであると語っていた。そのユゴーに魅せられた要因のひとつは、この言葉にあった、と。
 戸田先生も、また私も、ユゴーが好きである。
3  プロレタリア文化大革命は、十年続いた。世界に知られるこの作家も、数年の間、本を読むことも、ベンを握ることも奪われた。
 今、彼は、また「美しい二つの瞳」と題して、かの陰険な謀略的権力に対し”戦うペンを持った”ともらした。上海でのことである。
4  桂林は煙雨であった。
 新線の榕樹が、青い湖水を静かに囲んでいた。
 絶景なる山水画の故郷が、しずかに眠りはじめたころ、旧知の中国人と心ゆくまで語り合った。彼は、故事をひき、紅潮しながら言った。
 「兼聴則明、偏聴則暗」――。
 びろく聴けばすなわち明、偏って聴けばすなわち暗である。
 胸にしみいる言葉といってよい。広い心で人の意見を聞き、より多くの人と会う。そこに、理解は深まり、物事は正しく明らかに見えてくる。
 桂林とは金木犀のことである。
5  広州では、五つの大学の学長を経た、朱劭天しゅしょうてん先生にお世話になった。いうなれば一級の知識階層である。
 彼は、文化大革命の嵐の中で、多くの文化人の運命と同じであった。それは、名誉を剥奪され、一年半もの禁錮を命ぜられた。そしてその後、厳しき労働を強いられたひとりといってよい。
 「禁錮されたとき、自分の人生はこれで終わりだ、と思ったか」と聞けば、「いや、私には自信があった。四人組は明らかに間違っている。私はそのとき、”必ず正義は証明される。だから、今は、身体をおおいに鍛えておこう”と思った」と、言いきった。
 矛盾の吹雪を乗り越えてきた自己の歴史を、淡々と語る笑顔が忘れられない。
6  鄧穎超とうえいちょう女史(故周恩来氏夫人)も、鋭く、「私どもは、四人組に徹底的に非難され、幾たびか殺されかかったことがある。しかし、今は勝ちました。彼らは、人民のことを考えず、自分達の手中に権力を略奪したのです。彼らは二面性の人間なのです」と、語っていた。
 彼女も偉大なる婦人革命家であった。
7  北京では、常書鴻じょうしょこう氏と膝を交えた。
 彼は、敦煌の著名な研究家である。また”人間国宝”ともいうべき人物といってよい。
 敦煌とは「大きく輝く」との意味である。当時の模様を、目を輝かせて楽しく再現してくれた。
 半世紀前――中国では、誰人もこのいわゆる仏教文化の宝庫たる、敦煌については、関心を持たなかった。ただ一人、文化の希望を胸に、荒寥たる西域への出口に立ったのは彼である。単身、駱駝に乗り、幾日も砂漠の旅を続けた。あの未知の世界にたどり着くまで、そして、あの文化の真髄を確かめるまで、彼は平和の戦士として戦い続けた。妻も、ついにその苦労に耐えず、去ったという。
 しかし、数十年来の苦労は、見事に開花した。今や世界の注視の光の姿となった彼に、私は拍手を送りたい。
 夢のシルクロードの物語、東西文化交流の要路、通途の仏教の凝結の都市に――万年の未来を志向しての、我らの正法広布への、ひとつの示唆を私は得た思いがする。
8  人民大会堂で、華国鋒かこくほう主席と握手した。
 「青年達に、正しい人生観を教える以外にない」と、彼は言った。
9  今、我々は、日蓮大聖人の、時代と国を超越した、永遠不滅の大仏法を信受し奉っている。そして、化儀の広宣流布という、社会と自己と――人生の目的と現実生活を貫きゆく妙法という法則にもとづいた、明確なる人生を生きている。この世で、これ以上の誇りと喜びはない。
  金の橋 五たびに息はむ 八幡抄
 橋には扉がない。歩みゆけば更に堅固になる。日本国中のあらゆる地域にも、この正法の橋を、我々はつくりゆきたいものである。

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