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日蓮大聖人・池田大作

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恩師と桜  

1980.4.0 「広布と人生を語る」第1巻

前後
1  それは、美しい絵であった。
 落花紛々、青山墓地の桜の木々から、白い雪の如き、花びらが舞っていた。昭和三十三年四月八日の昼のことである。
2  その日は、恩師戸田先生の告別式の日であった。
 戸田家の葬儀は、遺言通りに、一週間つづいた。八日の日の午前九時、目黒の御自宅を出発した御遺体にお供して、常在寺に向かう途中、車は、青山墓地の桜並木にさしかかった――。
 その刹那の、歴史的な光景は忘れることができない。
3  思えば、四月二日、午後の六時すぎであった。日大の病院から、私に「父が、ただ今、亡くなりました」との、御連絡を御子息より、受けたのである。
 私は絶句した。その時の生命の震動は、生涯にわたって、言語に表すことはできない。
 恩師によって拾われ、恩師によって育てられ、恩師によって厳たる信心を知り、また、仏法を学んだ私。さらに、恩師により、人生いかに生くべきかの道を教わり、恩師によって、現実社会への開花を教わった私――。
 これこそ、私にとって、この世の人生の崇高なる劇であり、現実であり、確かなる青春の調べであったといってよい。その恩は、山よりも高く、海よりも深い。
 私は、この御恩を報ぜんがために、恩師の指向する壮絶なる広宣流布の戦野に続いた。誰人の非難があろうが、いかなる怒涛の社会に立ち向かうとも恐れない。それは、大御本尊の御許に、妙法流布に殉死せる、この恩師の理念と行動と信仰をば、必ずや、世界に証明せんと、決意したからである。
 恩師の信心の炎の叫びと、そして、門下との共鳴は、誰人たりとも、おかし得ぬ麗しき波動が、波動となって流れたと確信する。これこそ、私の一個の人間にあって、青春という、心の桜花であり、まさに生命の満開の姿といってよい。
4  恩師の人生は、波乱万丈であった。特に、人生最終章にあっても「法華経のために命を捨てよ」との御聖訓のままに、生死流転なされた。獄中にあっては、不退の信仰、また、仏書を深く深く読み切られた。
 戦後の焼野原にあっては、一人、獅子の如く、地涌の戦士の旗を引っさげ、ありとあらゆる人間群に突入していった。あの慈愛の勇姿に、門下も勇んで後に続いた。
 今、その金の道は、世界へと広がっている。
 五十八歳の人生であった。幾百年にも通じゆく生涯であったといえる。
5  学会葬は、四月二十日であった。御遺骨は本部より青山墓地を廻り、青山斎場へと向かった。遺族、代表幹部の門下生の列は、それに続いた。あの美しき、万来の桜は、いまや葉桜とかわり、縁濃く、青々と、薫風に揺らいでいた。これもまた、一幅の名画であった。
 恩師には、私はよく烈火の如く叱られた。この叱咤が慈言となって心に留まり懐かしい。これが、発光し、光明の道を常に開きゆく源泉となった。とともに、慈父の如く、いつも愛された。私にとって、この人こそ「人生の師」と言わずして何といおうか。
6  恩師と私は、幾たびか散歩した。さりげなき、一つ一つの言葉が、私の胸中の宝となっていった。
 市ヶ谷より、満開の桜を眺めつつ、お堀端に仔む時もあった。
 「厳寒の冬を耐えて、また、あの桜が咲いた」と、もらされた。そして「冬は必ず春となる」と、沌々と述懐されていた。
7  私にとっての恩師、戸田先生逝いて二十二年。ここに、二十三回忌法要をば、総本山大石寺にて迎えることができ、感慨ひとしおである。常に、そして特に、大導師を賜りし、代々の御法主上人貌下に南無し合掌し感謝し奉る。
8  「桜の花の咲く頃に死にたい」と恩師は、もらしていた。その願いのままに、四月二日、あの山にも、あの道にも、桜の花が匂っていたのだ。今年の春も、総本山には、桜の山が微笑む。あの村にも、あの町でも、桜の道で、平和を謳う人が多いにちがいない。
9  今年もまた、青山墓地通りの桜の花も咲く。しかし、時代とともに、二十二年という星霜を経た、その桜も、老齢となり、咲く花も少なくなっている。
 私は、今、功徳爛漫の人生たれ――と祈りつつ「大桜」の揮毫を、友に贈る日々である。

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