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日蓮大聖人・池田大作

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高知研修道場開所1周年記念勤行会 功徳に満ちた家庭を築け

1978.12.7 「広布第二章の指針」第14巻

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1  日ごろお会いできない皆さん方にこうしてお会いし、また、たいへんにお元気なお姿を拝見し、これほどうれしいことはない。機会あれば、これからも何回もおじゃましたい気持ちである。それはそれとして、私としてはただただ、皆さん方の無事、安穏、ご一家の興隆を、御本尊にご祈念していく決心である。
 「南条殿女房御返事」に、日蓮大聖人は、次のように仰せである。「悪積れば地獄となる・善積れば仏となる・女人は嫉妬かさなれば毒蛇となる。法華経供養の功徳かさならば・あに竜女があとを・つがざらん(中略)御所労の人の臨終正念・霊山浄土疑なかるべし・疑なかるべし」と。
 悪の一念、悪の行為が重なれば地獄となる。それに対して、極善の妙法の当体である御本尊に唱題しゆくならば、成仏の境涯を開いていくことができる。この苦悩にみちた現実の人生、社会において、われわれが最高の善を積みゆく道は信心修行しかないのである。ゆえに、信心に、行学に、折伏に励みながら善を積み、一生成仏をめざしていきたいものである。
 「竜女」といえば畜生界を表徴している。一般的に考えれば低い立場にある。その竜女でさえも妙法によって成仏した。したがって、信行学の実践に真面目に励む人はいかなる境涯の人であっても、かならず福運を積み、成仏できるというのが仏法の法理である。
 ゆえに、皆さん方は、自身のため、一家一族のため、永遠に崩れざる功徳の土台を築いていることを強く確信してほしい。勇気と自信と誇りをもって生きぬいていただきたいのである。
2  また「弥源太殿御返事」に「日蓮をつえはしらとも・たのみ給うべし(中略)只一心に信心おはして霊山を期し給へ」とある。
 だれびとであっても、いつかは死ぬ。そして、仏法の三世の生命観に立てば、各人の生前の業因に従って、十界のそれぞれの境涯をえることになる。
 この”死”こそは、人々のもっとも恐れるものであり、生命の世界の因果についてはいかなる政治家、科学者、指導者といえども、次元が違うゆえにわからないものだ。
 もったいなくも御本尊を信受するわれわれは、この御文に仰せのように、後生においても自由自在の、すがすがしい妙法の世界へと入っていけるのである。
 また、大聖人は、御自身を成仏への「通塞の案内者なり」とも仰せくださっている。
 大聖人即御本尊であられ、三世にわたりわれわれを救ってくださるのが御本尊である。そのための、われわれの信心でもあることを自覚されたい。
3  ともかく、何があっても題目を唱えることによって人生を生きぬいていただきたい。「苦楽ともに思い合せて南無妙法蓮華経」とある。この一点にすべては帰着するといってよい。また、すべてがそこから出発するのである。
 きょうからはいちだんと発心して、みずからの唱える題目の力が十倍、二十倍となっていくことを確信して進んでもらいたい。
4  学会は信心の団体である。この清らかな世界で、純真な人々の心を悪用し、金銭貸借等々の組織利用、信心利用があっては断じてならない。皆さん方はそうした悪に対しては信心の眼で鋭く、そして賢明に見ぬいていっていただきたい。
5  戸田前会長は、われわれのために三つの指針を遺されている。いつも申し上げるが、いわゆる「一家和楽の信心」「各人が幸福をつかむ信心」「難を乗り越える信心」の三つである。
 要するに、真実の幸福は自分で築く以外にない。他から与えられるものではない。また、身近なところにこそ幸福はある。御本尊に南無して、わが胸中の仏性を涌現していく以外に、不壊の実像の幸福はないのである。
6  信心のことで一家、親戚にいさかいを起こすのは賢明でない。良識豊かに、仲よく、なごやかにやっていくことじたいが信心である。一家で信心しているのがたとえ今は自分一人であっても”なんとか一家を和楽に””家庭を安穏に”という家族の幸せを祈る強い一念さえあれば、時が解決するものであるからだ。
7  いかなる苦難、宿命の嵐があっても、御本尊の功徳力には変わりはないのである。信心第一に苦難を乗り越えるたびに、それぞれ大きく脱皮し、いちだんと高い境涯を開いていけるのが御本尊の力である。
 前会長の”永遠の三指針”をつねにわが身にいい聞かせて、皆さん方がますますお元気に、楽しい信心即生活、信心即人生を持続していかれるよう祈ってやまない。
8  水の信心、真剣な教学を
 信心は水の流れるがごとく貫いていくことが大切である。信心をしているからといって悩みがまったくなくなったり、病気にならないといった特別な姿になるわけではない。信心は道理である。それぞれの宿業もあるのが現実の人生でもある。その人生に凱歌をあげるための信心が、われわれの信心であることを自覚してほしい。
9  人間は強いようで弱いものである。信心も、大部分の人にとっては、一人で持続するのは不可能に近い。そのために信心を強盛にせしめる組織が必要であり、同志がいるのである。どうか、皆さん方も、この信仰に結ばれた、うるわしい人間と人間の絆のなかで、互いに励ましあい、補いあって”水の信心”を貫き、立派に所願を成就していっていただきたい。
10  功徳には冥益と顕益があるが、末法においては冥益が根本となる。目に見えないようであっても、あたかも水かさがひたひたと増すごとく、薫発され、熟して大福運の花を咲かすのである。それは、ちょうど草木や幼子の成長が、一日一日の姿には知覚されなくても、あとになって驚くほどの成育であったことを知らされるようなものだ。
 ゆえに、信心は長期の視点に立って、いかなることがあっても退することなく、十年、二十年、三十年と、粘り強く、地道にやり通していただきたい。
 その一つの証左として、生活を確立し、家庭を盤石にしてほしい。地域の人々もうらやむような健全な家庭、和楽の家庭、清潔な家庭を築いていただきたい。そうしたもっとも身近な一つひとつの実証じたいも立派な折伏に通ずるからだ。また、色心ともにふくよかな自分、安心できる一家になれば、その事実の姿が、多くの人に信仰者としての実証を示すことになる。
11  水の流れるような信心の基本は教学にある。どうか教学の研鑽に真剣に励んでいただきたい。青年部は当然として、とくに五十歳未満の壮年の方々には、強くそのことをお願いしておきたい。御書を全編拝読していこうというぐらいの気概で、真剣に教学に取り組むことを提案しておきたい。最後に、皆さん方が信心の道、幸せの道、名誉ある栄光の道、広宣流布の道を、勇気と希望をもって、ともどもに前進していかれんことを心より念願して、祝福のあいさつとさせていただく。

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