Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

高知文化会館開館1周年記念勤行会 功徳無量の人生を共どもに

1978.12.6 「広布第二章の指針」第14巻

前後
1  法華経二十八品それ自体も、その開結二経も、大聖人の仏法の奥義に照らした場合、すべては御本尊の説明書になるといってよい。御本尊の無量無辺の大功徳を、仏力、法力を説かれているわけだ。
 その法義にもとづき法華経の開経である「無量義経」の一節を拝読したい。
 「善男子、是の如き無上大乗無量義経は、極めて大威神の力ましまして、尊にして過上なし。能く諸の凡夫をして皆聖果を成じ、永く生死を離れて皆自在なることを得せしめたもう。是の故に是の経を無量義と名づく。能く一切衆生をして、凡夫地に於いて諸の菩薩の無量の道牙を生起せしめ、功徳の樹をして欝茂扶疏増長せしめたもう。是の故に此の経を不可思議の功徳力と号づく」(大石寺版「妙法蓮華経並開結」113㌻)
 これは、文底からみれば、御本尊の偉大な功徳力を述べた経文であるといえる。「善男子」とは、教相においては大荘厳菩薩が対告衆になっているが、現時においては、御本尊に南無し奉り、各地域の寺院を大切に、僧俗和合しながら信行学に励み、広宣流布のために日夜、前進している人と拝せよう。また総本山に参詣し、折伏行に励む皆さんの立場にあたろう。
 その人が、みずからの仏性を開顕し、御本尊の偉大な功徳をうけきっていけるのである。また、諸天善神が、その信仰者を守ることは間違いないことである。そのためには、なによりも「日夜朝暮に又懈らず」との大聖人の御指南のとおり、生命錬磨の精進行が大切となる。
 この尊貴な大御本尊を教えるために、高知はおおいに折伏を行っていただきたい。
 「是の如き無上大乗無量義経……」とは、大乗仏教の極致であり、文底からみれば三大秘法の大御本尊様のことである。御本尊の広大無辺の大功徳を示され、永遠に、南無妙法蓮華経以上の「法」はないとの経文なのである。換言すれば、宇宙根源の根本法則であるこの大御本尊様の仏力、法力以上の尊貴なものはないのである。これこそ、私たちが拝受し奉った大御本尊であるとの御教示である。この大御本尊に南無しゆく信力、行力によって、人生に大福運を積んでいけるのである。
 「能く諸の凡夫をして皆聖果を成じ……」――御本仏日蓮大聖人は、もったいなくも凡夫僧のお姿で一切衆生のために教化あそばされた。ありがたいことに、この大御本尊のみが、荒凡夫である無知な私たちをして、生死の苦海を離れて、現当二世にわたる幸せな自在の境涯を得せしむることができるというお約束なのである。
2  すなわち、大御本尊を信受した私たちは、間違いなく功徳あふれる福運の人生を満喫することができるといえるのである。
 「是の故に是の経を無量義と名づく」一無量義といえども、根本の法たる南無妙法蓮華経の御本尊に納まってしまうのである。無量義も一法より生ずる、である。ゆえに、この妙法の一法より無量に開かれゆく法門も、すべて御本尊のもとに帰結するのである。
 「能く一切衆生をして、凡夫地に於いて……」とは、私たち御本尊を信受した一人ひとりが、その功力によって凡夫そのままの姿で、無量の功徳をうけていけるということである。
 大御本尊の偉大な功徳は、永遠不変であられる。この大御本尊に唱題するときに、私たちの内なる仏性が涌現されていくのである。それは、あたかも、路傍の草花が、その根のあるかぎり、いくら摘みとっても、時とともに繁茂するごとく、信心の根を張ることによって、わが身の当体に功徳のかぎりなき繁茂となっていくのである。
 ゆえに「此の経を不可思議の功徳力と号づく」とは、すなわち大御本尊の偉大なる功徳のことである。もはや、大御本尊を受持し、信じ行じたときには、功偲に満ちみちた一身の当体となっていくものである。その功徳の増長は、強盛なる信力と行力によることは当然である。その功徳の姿を社会のなかに示していくことが、また広宣流布の大切な修行の一つの姿ともなるのである。
 ”水の信心”と”団結の高知”、さらに”功徳の高知”としての楽土を見事に築きあげていかれますよう心よりお祈り申し上げ、本日の指導とさせていただきたい。

1
1