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日蓮大聖人・池田大作

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姫路支部結成18周年記念勤行会 「人材の年」に人材の姫路城を

1978.11.14 「広布第二章の指針」第14巻

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1  11年ぶりでお元気な皆さん方とお会いできて喜びにたえない。
 「名は体をあらわす」との言葉がある。姫路という地名は、王朝の香りが漂ってくるような優雅な感じをうける。皆さん方はその国土世間で、日蓮大聖人の大仏法を広宣流布してこられた。こうした尊い厳然たる事実があったればこそ、今日の幾百万の広布の陣列ができあがったのである。御書にも法華経にも説かれているとおり、折伏弘教によるその大福運を確信されたい、
 風雪に耐えて厳たる姫路城の雄姿は、どれほど大勢の人々の心の依処となってきたことであろう。人間もかくありたいものである。
 ともかく皆さん方も、明年の「人材育成の年」に向かって、あの姫路城のごとく、何があっても微動だにしない信念と信心の仏法者であっていただきたい。
2  日蓮大聖人の御一生は、激闘につぐ激闘であり、法難の連続であられた。その御一生は、すべて末法の御本仏としての御振る舞いであられることは当然として、その御一生には修学の時代もあられた。法体の広宣流布のための立宗宣言、さらに人類救済への大慈大悲の大法戦を展開なされ、熱原法難を機縁として弘安二年十月十二日に御本尊であられる一閻浮提総与の大御本尊様を建立あそばされたわけである。
 一閻浮提とは、現代では、全世界という意味である。したがって、御本仏の大慈大悲は、全世界の一切衆生のためにそそがれたのである。学会は、その一切衆生の先駆をきって、あとに続く無信仰の人たちのための”車引き”としての使命ある存在ともいえるだろう。これほど名誉なことはない。
 大聖人は御歳五十三歳で身延に御入山後、第二祖日興上人に折伏弘教の指揮を託されたのである。そして御自身は身延にあって、若いお弟子たちを育成しつつ、富木常忍や四条金吾等の信徒たちにお手紙を通じて法門を説かれ、厳たる信心の御指南をなされておられる。御修学時代、”動的な”大法戦の時代、そして御本懐を御成就あそばされたのちには”静的”な御姿を拝することができるのである。
 御本尊は即大聖人であられる。凡下であるわれわれは、この御本尊を信仰の根本とし、信仰者としてそれぞれの使命を立派に果たしぬいて一生を終わりたいものである。そして、後輩の訓育と成長を最大の楽しみとしながら、自受法楽できうる総仕上げの悔いなき人生を満喫していきたいものである。
3  大切な”一人”の強盛な信心
 戸田前会長は、生涯、信仰者として、激烈な折伏の実践の先頭をきって戦われた。その亡くなられる直前、最後の指針として”一家和楽の信心””各人が幸福をつかむ信心””難を乗り越える信心”との三指針を残された。私どもは、この三指針をけっして忘れることなく、大御本尊様を信じ奉り、人生、生活、社会のうえに昇華しつつ、勝利の信心をかざっていきたいのである。
 信心は”一家和楽”のためでなければならない。仏様は、一切衆生の遊楽を願っておられるからである。たとえば家族全員が信心していない家もあろう。しかし、夫であれ妻であれ子どもであれ、まず一人が「仏法と申すは道理なり」との信念に立って信心を貫き通していくことだ。
 ともかく「一切衆生・南無妙法蓮華経と唱うるより外の遊楽なきなり」と説かれているとおり、御本尊に題目を唱えぬいていく生活のなかに、遊楽の波動は始まっていくのである。
 ”各人が幸福をつかむ信心”――。信心は観念ではない。事実であり、実証である。自己の一生成仏のための信仰である。自分の人生ほど大切なものはない。その大切な自分自身の幸せの確立のために、仏法の信心はある。したがって、いかなる理由があるにせよ「人」を手段にしてはならない。御本尊は平等大慧なのである。「目的」は、一人ひとりの成仏にあるのだ。いかなる境遇の人々も、強盛なる祈念によって、自分自身の幸福を確立してはじめて、信心といえるのである。
 ”難を乗り越える信心”――。この法を行解していくところには、かならず三障四魔、三類の強敵があると御聖訓には説かれている。ゆえに信仰者には、大なり小なりの難はあるものだ。しかし、御書には「難来るを以て安楽と意得可きなり」とあるごとく、その難を乗り越えていくとき、信心はいちだんと深まり、確固たる永遠の生命の大功徳の根っこをより偉大に張っていけるのである。
4  僧俗和合の永遠の路線をなによりも大切にして、模範の姫路であるよう祈ってやまない。どうか、今世の人生を、時代とともに社会とともに遊楽していかれますように。そして護法のため、自身のため、子孫のために、勇気ある信心を祈ってやまない。

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