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日蓮大聖人・池田大作

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長野広布20周年記念勤行会 信心で所願満足の凱歌を

1978.8.24 「広布第二章の指針」第14巻

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1  (第一回)
 三十一年前の昭和二十二年八月二十四日、御授戒の儀式を終えたのはちょうど今ごろの時刻であった。戸田前会長に仕え、広宣流布という未曾有の大願に覚悟を定めた激闘の一年一年を振り返りながら、今年もよくぞ生きぬいてこられたというのが、八月二十四日がめぐりくるたびに覚える実感でもある。
2  御本尊に南無妙法蓮華経の題目を唱えることによって、自分自身の仏性が蒸発されるというのが、大聖人の仏法の法理である。この妙法の功徳がいかに絶大であり、万人に平等に顕証されゆくものであるかを確信してほしい。自分のため、一生成仏のためにも、信心だけは勇気をもって貫いていこう。
3  妙法は、一個の人間生命を根底から蘇生させゆく絶対の法則である。この一点を深く確信し、このためにも御聖訓どおり、ひたすらに唱題しぬいていくことが最大事である。
 広布にいそしむ方々が幸せになり、所願満足の人生を生きぬいていく、その一人ひとりを守り支えていくために、一切の矢面に立っていくのが会長の責務である。皆さ
 ん方は、どうか悠々と仏道修行に励み、功徳に満ちみちた晴れがましい人生の歴史をかざっていただきたい。
4  (第二回)
 戸田前会長の薫陶を受けたなかから、今なお忘れることのできない指導の一つは「生老病死」という人間の四苦に関するものであった。
 「生」――この世に生まれる苦しみともいわれるが、生きることじたいも苦しみである。生きているがゆえに煩悩が生じ、苦しみにおおわれる。
 この世は娑婆世界、堪忍の世界ともいわれる。しかし、妙法は煩悩即菩提の原理を説く。妙法の当体である御本尊に対する信心こそ、いかなる不幸な宿命も幸せに転じていける源泉力なのである。
 横には宇宙大の広がりをもち、縦に永遠性をもった極理を完全に説ききった妙法の当体こそ、御本尊そのものである。この御本尊に、自分の内なる妙法を冥合させゆく題目の力によって、自分の浄化はもとより、いかなる環境をもよりよく変革していけるのである。
 したがって信心とは、どこまでも自分の変革から出発し、自分に帰着する福運の法則といってもよく、1個の人間が所願満足の凱歌をあげゆく、その源泉の力となるものである。
 「老と病」――人間だれしも時とともに老いていく。身体も弱り、病気にもなっていく。しかし、そのときに、いったいなんのために生きてきたのか、と老いて悔いを残す人生であったか、なんの悔いもなく満足感につつまれた人生であるか、そこに人生の根本命題があるといえよう。
 仏法はこの根本命題を解明し、すべての人を無量に開き輝く境涯に至らしめる、絶対の法則なのである。このためにも、ただ一点、信心だけは強盛であっていただきたい。
 そして「死」という問題は、永遠に連続する生命においては一つの出発でもある。今世が苦しみの死であったか、なんの心配もなく大福運につつまれながらの死であったかによって、来世の実相も決定づけられてしまう。
 日蓮大聖人の仏法は、いかなる学問も哲学も解明することができなかった、人間生命の永遠性を説いた一生成仏への極理なのである。したがって、この世の一生を悔いなく、晴れがましく一生成仏の大道をかざっていくためにも、われわれはどこまでも謗法を戒め、善悪を鋭く見極めながら正信を貫いていかなければならない。
5  (第三回)
 今日、われわれが広布安定・向上の時代を迎えられるのも、すべては御本尊を根本として前進してきたからである。ゆえにこれからも、何があっても御本尊に唱題していこうという姿勢を忘れてはならない。
6  われわれは仏法者として、社会のため、広宣流布のために貢献していくことは当然のことである。しかし、そのためにも大切なのは自分であり、家庭であることを銘記されたい。自分を大切にし、わが家を大切にしていくのが、信心の第一歩であると知っていただきたい。
7  われわれは過去に仏縁を結んだがゆえに、この世のもつとも尊き広布の人生を送っているわけである。御仏意にかなった広布の使命に生きるわれわれが、幸せにならないわけがない。すべては信心で決するとの決意で唱題していくとき、どのような苦しみも煩悩即菩提で変毒為薬していけることを確信されたい。

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