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日蓮大聖人・池田大作

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岐阜・東濃圏記念勤行会 潔い信心で幸せの旅を

1978.7.28 「広布第二章の指針」第14巻

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1  (第一回)
 日蓮大聖人の御聖訓は、私たちの人生、生活の絶対の依文であり、大聖人の仰せどおりに生き、実践していくことが成仏の直道であり、それがわれわれの根本姿勢でなくてはならない。
 大聖人が「南無妙法蓮華経と唱うるより外の遊楽なきなり」と御指南あそばされていることに、絶対の確信と自信をもって日々の仏道修行に邁進されたい。
 われわれにとっての人生最極の「遊楽」とは、勇気ある信心、勇気ある題目の実践のなかにあることを強く銘記すべきである。
 世間的次元でいうところの、いわゆる遊楽だけでは充実感の伴わないむなしさが残るものである。
 真実の遊楽とは「自受法楽」と仰せのごとく、みずからの能動的な御本尊への唱題によってもたらされる仏界という最高の境涯を築くことである。
2  大聖人は「一閻浮提」と仰せである。事実、今や世界を舞台にして仏法求道の友が活躍している。
 妙法を根本にしたときに、主観視すれば生命、客観視すれば現実の生活、人生の両面にわたって、いわゆる色心依正ともに所願満足していけるのである。
 東濃の同志は、どのような非難や中傷があったとしても「ただ世間の留難来るとも・とりあへ給うべからず」との御指南を心に深く刻み、いよいよ信心強盛に、功徳に満ちあふれた人生を送っていってほしい。
3  (第二回)
 法華経の「普賢菩薩勧発品」の一節に「普賢、若し後の世に於いて、是の経典を受持し、読誦せん者は、是の人復、衣服、臥具、飲食、資生の物に貪著せじ所願虚しからじ。亦現世に於いて、其の福報を得ん」(大石寺版「妙法蓮華経並開結」670㌻)とある。
 この経文からも、末法の法華経である三大秘法の御本尊を受持し、如説修行しゆく者に大果報があることは間違いない。
 現代における如説修行とは、大聖人の仏法の自行化他にわたる実践である。信心に生き、弘教に生きる人は、三世十方の仏菩薩から賛嘆をこうむる尊い方々なのである。皆さん方もどうか、その粘り強き実践の大果報を確信し、日々の活動を進めていただきたい。
 さらに「若し人有って……終に獲る所無けんと」から「若しは実にもあれ、若しは不実にもあれ、此の人は現世に白癩の病を得ん。若し之を軽笑すること有ん者は、当に世世に、牙歯疎欠、醜脣平鼻、手脚繚戻し、眼目角睞に…諸の悪重病あるべし」(同671㌻)までの御文には、御本尊に対する謗法、法華経の行者を軽殿する者の、まぬかれることのできない厳しい因果の結末が示されている。
 われわれはどこまでも御本尊を中心に、すべてにわたって僧俗和合し、広宣流布に進んでいかねばならない。どうか、互いに信徒として、同志として仲よく、つまらない怨嫉などで功徳を消してしまうようないき方には絶対ならぬように、団結第一で東濃の広布のためにさっそうと進んでいっていただきたい。
4  (第三回)
 「日厳尼御前御返事」の「叶ひ叶はぬは御信心により候べし全く日蓮がとがにあらず」との御文は、勇気ある信心、深い信心こそ、過去世からのすべての宿命を転換し、人生究極の目的である一生成仏を可能にする原動力であるとの仰せである。
 御本尊の功徳は無量無辺であられる。しかし、その御本尊の偉大なる功徳も、われわれの信心が惰弱であったり、義務的、形式的な受け身の姿勢であっては、現実の生活、人生のうえに涌現させることはできない。
 ゆえにわれわれは、信心という一点においては、どこまでも厳しく、また真剣に持続していかなければならない。
 さらに「水すめば月うつる風ふけば木ゆるぐごとく・みなの御心は水のごとし信のよはきはにごるがごとし、信心の・いさぎよきはめるがごとし、木は道理のごとし・風のゆるがすは経文をよむがごとしと・をぼしめせ」の御文は、強き信心がみずからの仏性を顕現する本源の力となるということである。
 われわれの仏道修行の基本は信行学に尽きるが、このたえざる実践のなかで自他ともにみがきあい、ともどもに福運の人生を歩んでいくために、日々の組織活動が大事なのである。
5  (第四回)
 「妙一尼御前御返事」の「法華経釈迦多宝・十方の諸仏菩薩・諸天善神等に信を入れ奉りて…」の御文は、御本尊に”信”を入れて祈ることがいかに重要であるかを教えられている。
 ”信”を入れることとは、具体的にいうならば、広宣流布に生き折伏弘教に生きつつ、自身の宿命転換への強い祈念を込めていくことである。この大目的に連なった信心に福運はいや増し、師子王のごとき勇気あふれる境涯で、人生を闊歩していけるのである。
 東濃の友は、すべての人々が大信力をいだし、理想的な東濃の郷土を建設していっていただきたい。
 また「しかのみならず正直捨方便・不受余経一偈の経文を」の御文は、時代がどのように変遷していこうとも、謗法禁断の精神だけは永遠に忘れてはならないということである。水の流れるがごとくに進む。信心一途に生きる。これが人生究極の姿勢なのである。
 どうか、東濃の皆さんは、きょうの日を、題目の力がどれほど偉大であったかをしみじみ感じていける人生への出発としていっていただきたい。
6  (第五回)
 信心の究極は「無疑曰信」にある。すなわち「無疑曰信」の信心とは、いかなる障魔にも一切紛動されず、御本尊をどこまでも信じて疑わず、御本尊は絶対であるとのゆるがぬ信心を貫き通すことである。
 その信心に立ったとき、三世十方の仏菩薩がかならず守るであろうことは、御聖訓に照らして明白である。
 また、どのように教学に精通しようとも、世間の才能に恵まれていようとも有解無信であるならば、一生成仏への道はない。たとえ教学に精通していなくとも、絶対の信心があるならば、かならず一生成仏は疑いないのである。
 まさに、信心にまさる人生はないのであり、その地涌の固いスクラムは、いかなる権力、障魔といえども破ることはできない。
 ゆえに信心第一に、仲よく強盛なる信心を貫き、尊い一生をともどもに前進し、福運にかざられた所願満足の人生であっていただきたい。

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