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創価学園第11回入学式――メッセージ 凛々しく忍耐、勇気、努力を

1978.4.8 「広布第二章の指針」第13巻

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1  桜花絢爛の日、武蔵野の大地に従算え立つ創価中学、創価高校の門を晴れてくぐった鳳雛諸君の、かぎりない前途を祝福しつつ、心からおめでとうと申し上げます。
 また先生方には、これまでの伝統を築いてくださったご苦労を深く感謝申し上げるとともに、新たに迎えた可能性の宝庫ともいうべき若芽を、さらにすくすくと成長させていただきますよう、衷心よりお願い申し上げます。ご来店の父母の方々も、お子さん方が意義ある中学時代、高校時代を送ることのできるよう、陰ながらあたたかく見守ってくださいますよう、重ねてお願い申し上げるものであります。
 さて諸君は、中学、高校のそれぞれ三年間を、ここ武蔵野の一角で過ごすわけであります。三年といえば、長いようにみえて意外に短い。ぼんやりしていると、あっという間に過ぎ去ってしまう。ゆえに諸君は、一日一日をなんらかの進歩の日として、勉学やクラブ活動、スポーツ等に、ぞんぶんにうちこみ”わが青春に悔いなし”と誇ることのできる三年間を送ってください。
 そのためにもっとも必要とされていることは、忍耐強さ、粘り強さであると思う。
 有名な司馬遷の「史記」に”三年飛ばず又鳴かず”との故事が記されております。
 中国の斉の威王(「十八史略」では楚の荘王)の時代のことである。威王が政治を怠って国が乱れに乱れる。みかねた淳干髠じゅんうこん(「十八史略」では伍挙)という人が、謎によって王を諌める。「王の庭には、三年間飛びもしなければ鳴きもしない大きな烏がいるが、何という鳥か知っているか」と聞くのであります。すると威王は「この鳥は、ひとたび飛びたてば天に登り、ひとたび鳴き出せば世を驚かすであろう」と答える。そして、たちどころに臣下に賞罰を下し、諸国に威令が行き届き、国が興隆していったのであります。
 ”三年飛ばず又鳴かず”とは、三年間、文字どおり鳴かず飛ばずのようにみえても、けっして無為に過ごしていたのではなく、次の雄飛のために力を蓄える雌伏の期間であったという故事である。そして威王は、事実、大きく雄飛していったのであります。
 もとより諸君の三年間を、威王と同じ次元で論ずることはできない。しかし、目先のことに一喜一憂せず、次の飛躍のために忍耐強く実力を養っておくという点では共通していると思う。
2  私が、なぜこのようなことを申し上げるかといえば、最近の青少年の間に、ガラスのようなもろさが、あまりに目立つからであります。中学生や高校生の自殺、他殺の問題が、連日のようにマスコミをにぎわしている現状などは、その表れといえましよう。
 私は、若き命が断たれたという報に接するたびに、胸が痛んでならない。個々の事情はあるかもしれない。しかし、かけがえのない生命を、なぜもう少し慈しみ、忍耐強く生きてくれないのかと思わざるをえない。
 人間本然の道理からいって、生命というものは、最極に大切にすべきものであるといます。生命軽視の暗い影が、青少年をおおい、生きて生きぬく力を奪い去ったならば、日本の将来は闇につつまれてしまうでありましょう。
 ある作家が、二か月ほど前、次のように述べておりました。
 「とにかく、人類という大きな生命群が地上に現れて、存続しているので、私たちの一人一人はその一員である。そしてすなおに考えてみれば、私たちの生命は、何ひとつ私たち自身で作り出したものではない。髪の毛一本、私たちは作ることができない。この体、腕、顔、すべては私たちの自主性によって作られたものではなくて、人類という生命群から与えられたものである」と。
 その作家は、そうした人類の一員であるからこそ、勝手に自分や他人の命を奪ってはならないと結論している。私も、生命というものの深さと広さのうえから十分にうなずける考え方だと思っております。
 人間の”人”という字は、二人の人間が互いに支え、助けあうかたちをとっている。人間の”間”とは、文字どおり”あいだ”を意味している。このことからも明らかなように、人間とは”人と人との間”、すなわち広く社会のなかで成り立つのであって、自分だけ、一人だけの人間などというものは、本来、ありえないのであります。
 諸君たちにも、親があり兄弟がある。多くの知人、友人もあるでありましょう。のみならず、社会全般は、なんらかのかたちで諸君一人ひとりと繋がっております。したがって、諸君の人生の挫折は、それらの人々の悲しみであり、逆に見事な成長の姿を示せば、ともに喜んでくれるにちがいない。
 ゆえに、一人だけの狭い孤独のなかで悩んでいたりすることなく、つねに教師との交流、友との友情を深め、若者らしく勇気と忍耐と努力をもって道を切り開いていってください。そこに、やがて時代の主役となるであろう、たくましい青春のエネルギーが燃焼していくことは間違いありません。
3  一人だけ、自分だけの人間はないということは、たえず他人の生き方を気にするということではありません。自分に対しては、客観の目をもつことであり、他人に対しては、その人の立場に立ってものを考えることです。それが思いやりとなり、大きい心を養っていくでしょう。
 いつも自分中心で、他人との比較ばかりを気にするということは、小さい不安定な人間をつくってしまう。ただでさえ青年時代は、感情の起伏が激しく、成績の善し悪しから性格の違いにいたるまで、必要以上に他人の存在が気になる年代であります。そこから、無意味な優越感が生まれたり、劣等感にとらわれて閉ざされた孤独の世界に落ち込んだりする。
 ルソーの「エミール」に”他人と比較したり、他人に依存してはならぬ、しかし、つねにきのうの自分ときょうの自分とを比較することを忘れるな。他人と比較するだけでは社会の奴隷となるのみだ、きのうの自分との比較を忘れると慣習の奴隷になってしまう”という趣旨の主張があります。青年の生きるべき道を示した、ひじょうな名言であるといってよい。
 他人と自分を比較してばかりいる小さな生き方ではなく、彼には彼の使命がある、われにはわれの使命があるとの広い心に立って、きのうよりはきょう、きょうよりはあすと、一歩一歩、進歩と向上の坂を上っていく力こそ、真実の若さではないだろうか。
 そのためにも、試練を避けてはならないと申し上げておきたい。
 御書に”槻の木の弓”の故事が説かれている。
 あるとき、学問をしない怠け者の子供を、父親が槻の木の弓で打った。子供は痛いので、父親を嫌い、弓を憎んだ。しかし、それでも勉強し、修行を積んで、悟りを得ることができた。さて振り返ってみると、自分が悟ることができたのは、いつに父親と弓のおかげである。そこでその子供は、いまは懐かしい槻の木でもって率塔婆をつくり、厚く父親を供養したというのである。
 私は、スパルタ教育を勧めているのではない。槻の木の弓とは”試練の弓”であります。たしかにそのときはつらい。だが試練を乗り越えてみると、改めてそのありがたさが感ぜられるものであります。
 そうした苦闘のなかで培われてきた力は、諸君が社会に旅立っていったときに、学んだ学問にもまして強力な発条となっていくことを知ってください。
 最後に、諸君がこの学園生活を通して、見違えるようにたくましく成長されんことを祈りつつ、私のメッセージとさせていただきます。

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