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日蓮大聖人・池田大作

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第4回各部代表懇親会 強き信行で大満足の人生 

1978.3.23 「広布第二章の指針」第13巻

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1  ”七つの鐘”の構想
 三月度本部幹部会でも申し上げた”七つの鐘”のことについて、再度申し上げておきたい。この構想は、昭和三十三年五月三日、恩師亡きあとの最初の、第十八回春季総会で述べたものである。
 学会は昭和五年の創立以来、七年ごとに大きな発展の節を刻んできた。
 すなわち、創立から昭和十二年までを第一の鐘とし、同年に発会式が行われた。この十二年から十九年までを第二の鐘、そして昭和十九年より二十六年、これを第三の鐘とし、二十六年から三十三年までが第四の鐘、同じく三十三年から四十年までを第五の鐘、四十年から四十七年までが第六の鐘、最後の第七の鐘が四十七年から始まり、明五十四年に鳴り終わるという、いちおうの構想であった。
 「学会は七年ごとに大きい歩みをしていこう。これを一つのリズムとしていくのだ」と戸田前会長は語っていた。
 仏法上の深い意味はないとしても、当時は「学会は空中分解するであろう」等の批判も強かった。この意味からも学会の明確なる目標、路線が必要となっていたわけである。
 そこで私は七年ごとのリズムをつくり、また区切りをつけていきたいと念願しつつ、今日まできたわけである。
2  その”七つの鐘”がいよいよ明年をもって一つの区切りを告げるわけだが、これは終わりを意味するのではない。私どもは、明年を”第一の七つの鐘”が鳴り終わる時ととらえ、広布の土台の完壁な総仕上げをめざしていきたいと思う。
 明後年には創立五十周年を迎える。そして、その翌昭和五十六年には、意義深き日蓮大聖人第七百遠忌を迎えることになる。さらに昭和六十五年は、創立六十周年を迎える。この年は恩師の三十三回忌にあたっている。それから十年後の昭和七十五年、すなわち西暦二千年には、創立七十周年、前会長の生誕百年の佳節を迎えることになる。
 その意味においても私どもは、いちだんと僧俗和合の万年にわたる礎を築いておかなければならない。そして、この新しい展望のもとに”第二の七つの鐘”を打ち鳴らしていくためには、人材群が必要である。それは本日お集まりの諸君たちが大指導者となって、たいまつを受け継ぎ、後継者として思うぞんぶん信心の総仕上げの活動をしていく舞台となるであろう。
3  草創の同志の思い出
 これまでの広宜流布の途上においては、多くの同志が広布の花と散っていった。なかんずく、初代二代会長に仕え、また私の代においても大活躍をしてくださった故原島宏治理事長のことが、深く胸に刻まれている。
 故理事長は、広宣流布のために多忙な一生であった。戦時中は、牧口先生・戸田先生をはじめ二十一人の幹部が獄に投ぜられたとき、崩壊同然となった学会のなかにあって、よく同志と連係をとりながら学会を守った。また、寄りあっては、開目抄を読み、官憲とも戦い、その激闘は信心の手本であり、鑑であると賛嘆したい。
 昭和三十九年の十二月九日の寒い日の朝であった。私は東海方面に先に出かけていた。その日、熱海の会館で入仏式を行う予定であった。故理事長は、そこに自宅から出発する寸前に倒れた。じつはその七年前にも大病をわずらい、七年問の更賜寿命であったのである。
 現北条理事長はじめ首脳もただちに馳せ参じた。私も急速、故理事長宅に赴いた。そのとき私は、一言「ほんとうに広宣流布のためにご苦労さまでした。ありがとうございました」とお別れのあいさつをしたのである。
 その安らかな所願満足の相が、いまもって私の脳裏から離れない。幾千の参列者も、その一切を成就しきった成仏の姿を賛嘆していたことは論をまたない。
 同じく、初代の男子部長であり、第二代の青年部長であった牛田寛氏も、四十年一月十日に逝去された。かつては、大学で教鞭をとりながら戸田先生のもとにあって薫陶をうけ、学会の草創期を築いた功労者である。
 私は亡くなる数か月前に、病気見舞いにうかがったが、非常にお元気であった。そして、今世の使命を達成して逝去されたのである。私はいちはやく自宅に馳せ参じた。大切な同志を失い、残念であったが、その安らかな満足しきった成仏の顔がいまでも忘れられない。
 また鶴見広布の先駆者である森田悌二さんは、一昨年九月、七十五歳で安祥として亡くなられた。ご子息の森田一哉副会長からお聞きしたことだが、亡くなられる前に好きな風呂に入り、眠るように亡くなられたという。ほんとうにきれいな死に顔で、大勢の参列者がそれを見守っていた。生前つねに「幸せだ、幸せだ」と、周囲の人に語っていた。
 このように立派に成仏して、生々世々にわたる新しい蘇生の旅立ちをしたのが、学会の大先輩たちの姿といってよい。
4  これだけの激務を重ねてきたお互いであり、同志である。想像を絶する広宣流布の不眠不休の戦いをしてきた。
 またわれわれは凡身である。ゆえに激動のなかにあっては、多少の傷をうける場合もあろうし、病に倒れることもむしろ当然かもしれない。信心のうえからみれば、それにも、多くの人々への深い意味があるといってよいだろう。
 そのような広布の旅路において、宿命の打開をしながら、一時の大病を見事に克服し、ふたたび広布の庭に立ち上がっている人も多い。
 牧口先生の門下であった神尾武雄先生は、ご承知のとおり、戸田先生と時を同じくして、弾圧のため牢に入った。しかし、たいへんに疲れてしまった。戦後、戸田先生のもとに馳せ参じたわけであるが、本人は死に直面するほどの大病をわずらった。
 その神尾先生が「仏法の厳然たる因果を思い知らされた。漸愧にたえない」とよく語っていた。いまでは、その大病も克服し、教育者としていまも立派に活躍している。そして「学会に恩返しをしたい。原島宏治先生のぶんまで私は働きたい」と語っているのである。
 また、石田次男氏も、戸田先生のもとでいっしょに戦ってきた同志である。激務のため、途中、病床に倒れたこともあった。しかし、宿命を打開して、ふたたび広布の戦列に加わって「戸田先生の弟子として、約束を果たしたい」といって、厳として言論戦の指揮をとっているのである。
 また、草創期から男子部の中枢であった山本雅治君も、一時、腎機能障害で第一線を退いていたが、その彼も、宿命打開の信心の力で見事に立ち上がり、広布の舞台で多くの同志とともに懸命に戦っている。
 たとえ病気になっても、その姿が、多くの同志に信心の偉大さを教えていく場合もある。ともかく彼も、転重軽受の御書を色読した一人といってよい。みな、深いご仏智の意味があるとみたい。
 また同じく、草創期の青年部の草分けの一人である山口康宏君も、一度、胃と肝臓のガンと宣告されたが、奇跡的に回復し、現在では指導部の第一線でがんばっている。
 これが大勢の人々への、真実の信心の証明の力といってよい。一切ムダがないのだ。すべての姿が広宣流布への大きな原動力となっていることを、強く銘記して進んでいっていただきたいのである。
5  近隣への細かな配慮を
 副会長会議でも話しあった事項でもあるが、各会館での会合については、あくまでも定員を厳守していきたい。絶対に定員を超過してはならない。
 また、駐車等についても、近所に迷惑をかけては絶対にならない。むしろ、会館での会合には、ノー・力ーで、開会時間もほとんどが午後六時半ないし七時であるから、中心都市等では電車等を利用していただきたいと思う。そのほうが、足も鍛えられて健康によいし(笑い)、交通事故の危険も減少しよう。
 とくに隣近所は、もっとも大切な広布の足元であるがゆえに、絶対に迷惑をかけてはならない。このことを幹部みずからが率先して遂行していただきたい。
6  「八幡宮造営事」にいわく「返す返す穏便にして・あだみうらむる気色なくて身をやつし下人をも・ぐせず・よき馬にものらず、のこぎりかなづち手にもちこしにつけて・つねにめるすがたてにておわすべし」と。
 これは池上の宗仲、宗長兄弟に与えられたお手紙である。当時、池上兄弟は、信心しているというだけで周囲から怨嫉され、罵署雑言をあびている状況にあった。そのときの大聖人の指導である。
 「くれぐれも、穏やかに、人を恨むようなようすを示さず、質素な身なりで、下人なども連れないで、よい馬にも乗らないで、のこぎりやかなづちを手にもち腰につけて、つねに笑みをたたえていきなさい」との仰せである。今日の乱世不況の時代にあって、われわれにとって、これは心に深く刻んでいくべき一節である。
7  方便品、寿量品を読誦する意義
 話は変わるが、われわれが、なぜ正行である唱題のほかに、助行として方便品、寿量品を読誦するのかについて申し上げたい。
 七百年前、曾谷入道という方が「観心本尊抄」の御文を勘違いして、迩門は無得道であるから読誦しないといって、大聖人から叱られたことがある。
 すなわち、方便品、寿量品といえども、大聖入の仏法のうえから読む場合は、すべて、南無妙法蓮華経の五字七字の御本尊、御本仏日蓮大聖人の、偉大な徳を顕彰するために読むのである。
 これをむずかしく拝すれば、方便品を読むのは「所破・借文」のため、寿量品を読むのは「所破・所用」のためと、日寛上人は仰せである。この言葉の意味の説明は、省略させていただくが、総じて法華経といえども、南無妙法蓮華経のために説かれたものなのである。われわれは、方便品、寿星品、唱題とすすむなかにあって、一切の究極である南無妙法蓮華経を賛嘆しつつ、題目の功徳をわが身に表していくのである。
 ゆえに日寛上人は、平易なたとえを引かれ、唱題を”米飯”に、方便・寿量両品の読誦を”塩酢(塩や酢)”にあてておられる。ご飯をおいしく食べるには調味料が必要である。方便・寿量の読誦は、この塩酢の立場であるというのである。この意義をよく理解し、勤行に励んでいっていただきたい。
 皆さん方の日々の健闘を心より謝し、また今後ますますの活躍をお願いして、本日の指導とさせていただく。
8  '78山梨文化祭 団結の絵巻に信心の昇華
9  文化の山梨にふさわしく、本日はまことに立派な文化祭に招待していただき、衷心よりお礼を申し上げたい。本日はまた、山梨県下より能勢昭済尊師(支院長)をはじめとする全御僧侶の出席をいただき、皆さん方を代表して心よりお礼を申し上げたい。ほんとうにありがとうございました。
10  演ずる人も、観賞する人も心から喜び、明るく伸びのびと文化の祭典を繰り広げている皆さん方の姿を見ているだけで、私はうれしく思う。
 皆さん方が信心の喜びを満喫し、幸せの人生を生きぬいていくための会長である。したがって一人として犠牲にできないのが、私の責任なのである。皆さんが苦しめば私も悲しいし、苦しい。それが代々の会長の精神であることを知っていただきたい。
11  山梨県の同志の手で、だれの手も借りることなく、こんなにも立派な文化祭が開催されたことに深く敬意を表する。これで山梨も広宣流布の盤石なる舞台が出来上がったことを強く痛感したしだいである。ともかく満点の文化祭であったと思う。ほんとうにおめでとう。
12  仏法三千年の歴史を通してもわかるとおり、仏教の精神は、文化と平和の次元で、その興隆を示してきた。日蓮大聖人の仏法もまた、その方程式は同じである。化儀の広宣流布とは、仏法の真髄が、社会のなかで、文化と平和という姿で表れていくことだといってもよいであろう。
 最後に、本日のような文化祭の華やかさも大切であるが、それ以上に大事なことは、皆さん方が一人ひとりになったときの振る舞いであると申し上げておきたい。
 一人になったときに、あの富士の山のごとく、盤石なる信心をやり通していただきたいことが、私のお願いである。
 その意味において、生沽のうえでも和楽の実証を示し、人々からもあの家庭は立派だ、ほんとうに楽しそうだ、と心から賛嘆され、信頼されゆく姿がこれまた化儀の広宣流布の姿であり、人間としての本然的な文化祭の姿でもあることを申し上げて、本日の祝福のあいさつとさせていただく。

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