Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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東大会・慶大会合同総会 各界の人材が妙法のもとに

1978.3.5 「広布第二章の指針」第13巻

前後
1  皆さん方がこの現実社会のなかにあって、それぞれが人のため、社会のため、広布のために活躍していくことは、たいへんな力であり、その意味において、本日お集まりの皆さん方は、全員が広宣流布の顔であり、頭脳であっていただきたい。
 いかに著名人となっても、またいかに事業に成功した人といっても、人間にはむなしさがあるものだ。どのように真剣に頑張っても、また必死に努力しても、それがすべて報われるとはかぎらない。かならずむなしさというものが胸中に残るわけである。
 では真の充実感を得るためには、何を求め、何を実践していくべきなのか。
 日蓮大聖人の仏法は、このもっとも深遠な哲理を、もっとも簡潔に解明されたのである。
 すなわち、われわれの生命を動かしていく一念の根本が「南無妙法蓮華経」であるがゆえに、この「南無妙法蓮華経」を唱え「南無妙法蓮華経」に生きぬいた人生にはむなしさがなく、かならず最後は満足の境涯に入ることができるということである。
 したがって「南無妙法蓮華経」という生命の根本の一念の奥に連なった人生のみが、真実の生きがいと充実感を、生活のうえに事実として保持できるのである。
 もとより人間革命の途上において、ある一局面だけをみれば、むなしさを感ずる場合もあるだろう。しかし、それは、あとに残っていく悲哀的なむなしさとは、ぜんぜん違う。「南無妙法蓮華経」と唱えていくことによって、本然的に功徳の人生へと転じていけるのである。
 したがって、何があっても唱題し、これを繰り返していくことが仏道修行であり、それが境涯革命の原理といってよい。
2  御本尊について
 そのわれわれの根本である「南無妙法蓮華経」の当体が、三大秘法の御本尊である。
 この御本尊は、唯授一人の代々の御法主上人猊下に受け継がれて、われわれが拝受する御本尊は、代々の御法主上人の御書写による御本尊である。その御本尊に「南無妙法蓮華経」と唱えていくならば、絶対に成仏は間違いないのである。
 われわれの御本尊について、日蓮大聖人はこのように仰せであられる。
 「此の御本尊全く余所に求る事なかれ・只我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり」と。
 幸、不幸を決定づけるのも、すべては自分のなかにある。すなわち、己心の妙法を顕現させるかどうかにかかっているのである。
 ゆえに、この妙法の当体である自分の生命をみがくためにも、信行学という修行が必要となってくるのである。修行なくして悟れるものは何もない。これは万般に通ずるものだ。
 御本尊こそ、生命の根本の法則であるとともに、最高の生きがいと、永遠につながる成仏を実現できるありがたい大仏法なのである。
 この根本法理からも、われわれにとっては、ただひたすらに御本尊に唱題していく信心が一切の源泉である。
 したがって、会長に帰命するとか、あるいは会長が主師親の三徳を具えているとか、本門弘通の大導師である等と論ずることは大なる間違いである。正宗の本義、ならびに学会の指導に反する誤った言説は排し、正しい根本義の道を歩んでいただきたい。
3  東大会、慶大会ともに結成十年を迎えた。社会の各分野で、一流の存在として活躍してくださっていることは、まことに慶賀にたえない。
 私の心境は、ただただ皆さん方が社会の最前線に出て、華々しく戦い、仏法をたもった指導者としての偉大なる証明をしていただきたいことに尽きる。私はそのための、いわば根っこの人間であり、皆さん方の大成した姿を見ることがなによりもうれしいのである。
 皆さん方は、大御本尊様のもとに集った同志である。ゆえに大御本尊様との約束の人生を、信徒とし、同志として生きぬいていただきたい。
 仏法上の約束を果たすことが、とりもなおさず最大の信心である。人間としての究極
 の道もそこにあることを銘記されたい。
4  ともかく、われわれは、戸田前会長の門下生である。
 かの明治維新の吉田松陰は刑死したが、その弟子たちがその遺志を受け継ぎ、それなりに実証した。色めがねで見れば真実は見えない。戸田前会長もさまざまな非難の連続であったが、要するに弟子がどれだけ立派になり、また何を成し遂げるかということによって、一切が決まるのだ。
 皆さん方の健康とますますのご活躍を心よりお祈り申し上げ、私の話とさせていただく。

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