Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

第2回東京男女青年部合同部長会 広布大願の道を君ら継ぎゆけ

1978.3.4 「広布第二章の指針」第13巻

前後
1  三月十六日の「広宣流布記念の日」をまえにして、東京の男女青年部の部長諸君と、こうしてお会いでき、本当にうれしく思う。
 じつはきのう、残念なことにお一人交通事故で亡くなられた。心から哀悼の意を表するとともに交通事故等、不慮の災難にあうことのないよう祈ってやまない。
 若き諸君は、これから大御本尊様にご奉公する身である。広宣流布のため、これからもあらゆる社会に向かって、たゆみなき活躍をしぬいていく大切な人たちである。
 この意味からも、けっして無理をしてはならない。冒険する必要もない。あせらず、また縁に紛動されることなく、着実なる指揮をとっていただきたい。
2  ”行き詰まり”というものは人間だれにでもあるものだ。諸君は、その打開のために御本尊があることを忘れてはならない。御本尊に対する絶対の信があるかぎり、いかなる行き詰まりもかならず打ち破っていけるのである。
 日々の活動面で、組織がなかなか活気を呈しないことに悩んでおられる人もあろう。
 また思い通りにことが運ぱないことにいらだたしい思いをいだく場合もあるだろう。
 しかし、本日の会合だけでも、諸君には、何千人という元気いっぱいの同志がいる。全国各地にも、この喜びの世界があるわけだ。参加したことによって、依正不二で”よし、やろう!”と元気も出るし、力も出る。このように大きな心で部建設のために、悠悠と活躍していっていただきたいのである。
3  日蓮大聖人の仏法の本義に照らして、一人だけの宗教というものはありえない。
 これについて総本山第六十五世日淳上人もこのように仰せである。
 「この個人――本尊を同じくする――が集合して、そこにはじめて宗教という事実が存在する。個人の場合には、信仰のみであるから、宗教とはいわれぬ」と。
 ゆえに、一人だけで楽しく静かに信仰しようということは、事実上、宗教とはいえないのである。日蓮大聖人の仏法の本義も、あらゆる階層の人々が「南無妙法蓮華経」に帰一し、そして切瑳琢磨をしながら、成仏の道と広宣流布の坂をのぼっていくことが正しいのである。
 大勢の人々が、にぎやかに晴ればれと大御本尊様にお目通りをし、また広宣流布のために勇んで各地に散っていく、この集合と離散の繰り返しをしていかなければ、民衆とともに融合の前進をしゆく真実の化儀の広宣流布の展開はできないのである。
4  ”3・16”の日の意義
 三月十六日のことについては、いままでもさまざまの次元から指導され、記録されている。本日、私はまた一つの次元から、その日の模様と意義を若干かいつまんで、申し上げたい。
 戸田前会長は、二年間の法難による獄中生活でそうとう体を痛めておられた。昭和三十三年に法華本門の大講堂を御供養申し上げ、その落慶を記念して約二十万人の総登山があった。そのさい、時の国家の最高指導者として総理大臣を総本山に迎える約束をしていた。とともに、自身の臨終も、もはや近いと思い、次の世代に一切の偉業を託す決意でおられた。
 その日、昭和三十三年三月十六日は、六千人の青年部が総本山に集合した。しかし約束は、横やりが入ってついに果たされなかった。
 前会長は、衰弱して、足も動かせないような状態であったが、私どもが車駕にお乗せして大講堂に出ていただいた。前会長は、その代理の来客を迎えて、青年たちに講演したのである。
 自身の決意であった七十五万世帯も完遂した。また自身の発願であった大講堂も落慶した。あとは、この総登山を完了したならば、一切を後継者に譲る決心であられたようだ。つねづね第三代は、不肖私に、バトンタッチするという内意を示されていたわけである。立派な牧口門下生の先輩がおられたけれども、前会長は、あくまでも若い世代に未来を託する固い意志であられたのである。
 したがって広宣流布を、どこまでも”流れ”として遂行していくべき意義と、それを”継承”していくべき意義を含めて、「広宣流布記念の日」という名称になったことを銘記されたい。
5  広宣流布は絶対に遂行せねばならぬ聖業であるとともに、われわれの永遠に継承すべき大願でなくてはならない。ゆえに、この最高の偉業を推進していく諸君は、難を恐れてはならない。いかなる非難も恐れてはならない。
 この大偉業にご奉公できる私は「此の身を法華経にかうるは石に金をかへ糞に米をかうるなり」との御金言のままに前進し、これからも一切を諸君にバトンタッチするまで奮闘していきたい。諸君もまた、この大願を受け継いでいただきたいのである。
6  二十万人の総登山を終えられた前会長は、四月一日の早朝に理境坊を出た。医師につきそわれ、注射を打ちながら東京へ帰られた。その翌日の四月二日の夕刻に、日大付属病院で逝去なされたのである。
 この点については、当時の聖教新聞にくわしく掲載されている。なお私も、いずれ小説「人間革命」第十二巻に残したい決心である。
 ともあれ恩師の遺体は、遺言どおり一週間、そのまま自宅に安置し、多数の親族、弟子一同が見守ったのである。半眼半口で立派な成仏の相であったことは、幾万人の人が如実にご覧になっている。
 常在寺で戸田家の告別式を行ったときは、十二万人の人が参列した。また四月二十日の青山葬儀場での学会葬には、二十五万人が集まり、お別れをしたのである。
 もったいなくも、当時の御法主上人猊下であられた日淳上人が大導師となって一切の法要を営んでいただいたことは、感謝の念でいっぱいである。そして現日達上人猊下が、当時は総監であられた。葬儀万般からすべてにわたって、深いご慈愛のもとにお世話してくださったことは、私どもとして終生忘れてはならない大恩なのである。
 諸君は若い。長い人生にあっては、これからも苦しいこと、いやなこと、悲しいこと、つらいこと、多々あるであろう。悪世末法に生きる者として、それは当然のことといってよい。また、そうした有為転変のなかに生きていればこそ、煩悩即菩提、生死即涅槃の人生が証明できるのである。
 したがって「能忍とは仏の謂」とあるごとく、ひとたび決めた信心の道、ひとたび連なった広布の道を歩みゆくことを、何があっても断じて忘れてはならない。
 ともかく「持妙法華問答抄」の一節――「生涯幾くならず思へば一夜のかりの宿を忘れて幾くの名利をか得ん、又得たりとも是れ夢の中の栄へ珍しからぬ楽みなり」を深く身に体していただきたい。
 すべて大御本尊のご照覧あることを確信し、ひたすら大良薬を飲みながら、威光勢力を増し、すばらしい青春時代を飾っていただきたいことを心より祈って、私の指導としたい。

1
1