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日蓮大聖人・池田大作

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関東・東海道合同本部長会 信心即幸せの王道を歩め

1978.2.25 「広布第二章の指針」第12巻

前後
1  学会の草創期に婦人部長として活躍した人の家庭がある。夫婦とも、福運に満ちみちて、いまなお健在である。この一家に嫁いできた若奥さんが、婦人部長であった母についていわく「お母さんはいままで多くの人を指導、激励してきた。それがいま、因果の理法で、その当時の人がよく訪ねて来る。母に会いに来る人は、どの人も功徳をいただいていると、笑顔で喜びを語る人ばかりである。この姿をみて、私も人生の総仕上げのときに、このようにいわれるように、いまのうちにしっかり信心しよう。全力をあげて仏道修行したい。また、御本尊様にご奉公したい」と。
 これと同じように、皆さん方もいま、多くの後輩のために指導し、激励していくならば、大勢の福運に満ちみちた人々が集いあうことであろう。これほど尊く、また美しい現実の幸せを証拠づける人生の総仕上げはないと思う。この意味からも、毎日たいへんであろうが、勇気ある信心を奮い起こして”御本尊があれば、どんなことがあっても安心だ”と微動だにしない強い決心で生きぬいていただきたい。
 「私はこんなにも功徳をうけた」「私には福運がある」等々、心の窓を開いて、御本尊を受持できた喜びを率直に語り伝えていける人が、さらに信心の功徳をいや増していくものだ。反対に功徳をうけながら、体裁を考えて御本尊を称賛することができず、功徳を喜び、福運の体験を語りつげない人は、ほんとうの歓喜の信心があるとはいえない。
 御本尊の偉大なる功徳は、どのように賛嘆しても賛嘆しつくせるものではないと、牧口先生もつねづねいわれていたという。罰即利益、煩悩即菩提で、信心があれば一切を功徳にかえていけるのである。
 どうか信心だけは、けっして義務的な姿ではなく、確信をもって福運の体験を語り、功徳の喜びを語りついでいっていただきたい。
 先日、まことにかわいそうな残念でならない話を聞いた。父親は、ある著名な大学の教授であられた。二人のご子息もまた、著名校の秀才であられた。ご長男も、次男の方も最近、ともに自殺をしたという。私は、ご両親の悲しみはいかばかりかと思い、同情にたえない。とともに、今日の教育が、人間の幸せにつながらないという厳粛なる事実に、思わず身震いしたものである。
 人間の真実の幸せに直結している信心の道を知ったわれわれは、その根源の当体であられる大御本尊の偉大さに対して、謙虚に、報恩の道を忘れず、いや増して感謝の一念とともに、人々に正法を教えていきたいものである。
2  支部が誕生して一か月、順調に所期の目的に進んでいることは、慶賀にたえない。長い広布の遠征の旅路であるから、けっしてあせってはならない。とくに、支部の名をあげようとして、弘教やその他において、行き過ぎや事故を起こしては絶対にならない。
 草創のときの支部と、現在の支部とは、信心の精神は変わらない。しかし、時代状況がまったく違っている。一人の事故が、学会全体、社会全体に影響を及ぼす時代である。心して慎重に、良識的に一切の活動を展開し、社会の信用をかちとった支部が、真実の立派な支部であるということを忘れてはならない。
 なによりも一人ひとりをみがき、その一人ひとりが功徳みなぎる人生を歩んでいくことを念願し、またそのための組織であり、活動であるべきである。
3  仏法僧の三宝の本義
 次に、仏・法・僧の三宝について申し上げたい。
 総本山第二十六世日寛上人は「須らく文底下種の三宝を信ずべし、是れ則ち末法適時の信心なり」と仰せである。つまり、真実の三宝を信ずることが、末法という時にかなった信心なのである。
 問題は、なにをもって真実の三宝とするかであり、この一点から、日蓮正宗と他門流とに、天地の差異が生じてくるのである。
 それでは、文底下種の三宝とは何か。
 日寛上人は「当流行事抄」において「久遠元初の仏宝・豈異人ならんや即ち是れ蓮祖大聖人なり」「久遠元初の法宝とは即ち是れ本門の大本尊是れなり」「久遠元初の僧宝とは即ち是れ開山上人なり」と明確に説かれている。
 すなわち、仏宝とは、末法御本仏日蓮大聖人、法宝とは御本尊、そして僧宝とは本門弘通の大導師であられる二祖日興上人である。他門流においては、この三宝をはき違えているため、久遠実成の釈尊を本尊とするような大謗法をおかしてしまうのである。
 ここで僧宝とは、今日においては日興上人よりの唯授一人の血脈を受けられた御法主上人猊下であられる。また、ご僧侶はぜんぶ猊下の弟子であり、法類である。ゆえに、いかなる理由があるにせよ、われわれはご僧侶を大切にしなければならない。
4  御書を拝読するにあたっては、五重の相対をはじめとして、種熟脱、五重三段、三重秘伝、六種の釈尊、あるいは一往再往、総別の二義等を基礎としていくことが大切である。その意味から、御書の現代的展開も、これらの原理を正しく基盤にしてなされなければならない。大聖人の仏法を社会になんとか理解させ、納得させようとするあまり、正宗の本義から逸脱してはならない。過去においてもぞうした誤った風潮が一部にあったように思う。今後、厳重に注意していくべき問題である。
5  きょうは、代表幹部が何人か表彰された。今日まで、幾山河を乗り越え、広宣流布のためにご尽力してくださったことに、甚深の敬意を表したい。ますます色心連持で、更賜寿命を祈りながら、広宣流布のために確実なる足跡を残していただきたいことを、心から念願するものである。
 次に、皆さま方に提案したい。恩師逝いて二十年、皆さまも広布の前進をされて幾十年――。ここに、みずからの心境を伸びのびと和歌に託して、後世に残したいと思うがどうだろう。(全員、賛同の挙手)
 末法の御本仏日蓮大聖人の正法正義を、ご遺命どおり正しく実践するを王道という。化儀の広宣流布への正々堂々たる人生を歩んでいかれますよう、心よりお祈り申し上げ、本日の指導とさせていただく。

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