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第1回信越男子部幹部会 共に進もう、信心の決勝点めざし

1978.2.19 「広布第二章の指針」第12巻

前後
1  有名なホイットマンの詩「草の葉」のなかに「さあ出発しよう! 悪戦苦闘をつき抜けて!決められた決勝点は取り消すことができないのだ」との一節がある。
 悪戦苦闘――これは、広宣流布のためには通っていかなければならない宿命的なものである。また諸君たちのこれからの長い人生にあっても、悪戦苦闘しながら進んでいかなければならない日々があると思う。しかし、諸君たちにとって、広宣流布、一生成仏、人間完成、福運の勝利という人生の決勝点は取り消すことができないものと、肚を決めていただきたい。
 人生の最極の目的に生きるわれわれである。そのことをむしろ誇りとして、信心の確信に満ちみちて凛々しく進んでいかれるよう、祈ってやまない。
2  雪国の信越の同志が、はるばる立川文化会館に集っての幹部会の開催、まことにおめでとう。この日が諸君らにとって、一つの歴史的な思い出と人間革命への足跡になることは絶対に間違いないだろう。どうか自分らしく、自分の道を、自分と戦いながら、長い人生の坂を、忍耐強く上りきっていただきたいと思う。
3  トップに生きよ
 戸田前会長はよくこういっておられた。「男は、それなりにトップに生きよ」と。
 職場のトップに、商売のトップに、というように、それぞれの分野にあって、トップに立てるだけの信頼と実力と人間的魅力がなくてはならない。それには、それなりの努力と、労苦が必要であることはいうまでもない。
 一般社会の先輩をみても、それぞれの実力者は、それなりに人一倍の努力と労苦と勉強をしてきたという裏づけが間違いなくあるものだ。
 諸君らは、あいがた日蓮大聖人の大正法を根本としての人生を歩んでいることは、それ自体がすでに、もっとも根本的な次元でトップの存在といってよい。しかし、信心は即社会であり、信心即人生であるがゆえに、それぞれの分野・地域においても、事実のうえでトップとしての実力、信頼、人間完成への証明をしていかなければならない。
4  青年部幹部は、高等部、中等部、少年部の方々を大切に守り、折りにふれ激励・指導を願いたい。
 先輩の信心の激励、全の激励、教学の激励が発条となり、触発して、未来の指導者としての大きな運命を決めていく場合がある。
 ちょっとした出来事で、よい方向にも悪い方向にも道が分かれてしまうのが、この年代である。したがって先輩が、次代を託する真剣な気持ちで激励したときには、清純な心には太陽の光線があたったように、発光していくことは間違いないのである。
5  時代相応の指揮を頼む
 学会の草創期にあっては、当時の部長であった現北条浩理事長をはじめ、同じく青年部長であった辻武寿副会長、男子部長であった故牛田寛氏、さらに部長として活躍した石田次男氏、森田一哉副会長、竜年光氏、そして私を含めての七人で、広宣流布の火ぶたをきった。それこそ、獅子奮迅の奮闘であったといってよい。不惜身命の本格派の妙法広布の革命児として戦ってきたつもりだ。
 牛田先生は惜しくも亡くなったが、あとの人は、私をはじめ、北条理事長、森田副会長、辻副会長等々、いまもって奮闘していることはご存知のとおりである。また、石田氏は少々体をこわしたが、いまは元気で聖教新聞社で指揮をとっている。
 今後もさらに、広布の道を開き、後継の諸君らに一切をバトンタッチしていきたいというのが、先輩である私どものいつわらざる気持ちであることを知っていただきたい。
 われわれの戦いは、広宣流布という宗教革命であり、人類待望の無血革命である。このために、瞬時も享楽の暇もなかったし、休む暇もなかった。これもすべては、二十一世紀に向かう諸君にバトンタッチをしたいからである。
 革命には、身命を賭す以外にないのである。革命にはまた、民衆の信頼と理解がなくては勝てないのである。いま、時代は刻々と移り変わっている。したがって、当時の世代と今日の世代では大きな違いがあることはもとよりであるが、もっとも大切な信心の炎だけは、いや増して盛んにしながら、時代相応の広宣流布の指揮をお願いしたい。
6  極言すれば、政治は制度の運用の問題である。経済は、利害の問題である。科学は、物質の問題である。教育は、知的遺産の問題である。文化は、人間の情緒の問題である、しかるに、宗教は、人間それ自体の問題である。そして宗教の信心は、人間のもっとも心奥に迫る問題といってよい。
 人間には、科学では計り知れない微妙さがある。複雑さがある。いうなれば、矛盾の当体といってもよい。ゆえに、これだけの一千万以上の人間群のなかにあっては、さまざまな人間模様が複雑に織りなされていることも事実である。そこには、さまざまな問題が間断なく生ずることは、むしろ当然のことといってよい。
 しかし、この複雑微妙な人間を根底から一人ひとりに光をあてて救済しゆく、われらの運動こそ、仏様の使いでなければできえぬ崇高な作業である。他の分野では絶対になしえぬ世界といってよい。そして、この最大に尊い運動であるがゆえに、無認識の人々からは、偏見や誤解されることもまたやむをえないのである。
7  学会も、いつまでも子供であってはならない。独善的であってもならない。非は非と認め、信念と理不尽を混同してはならない。
 ともかく、さまざまな問題があっても、一切の責任は私にある。よく、前会長も「私の罪多き故」といわれたが、私もまたそうである。全会員の一切の間違いは、私がひたすら大御本尊にお詫び申し上げながら、広布の道を開く以外にない。
 諸君はこれからの人生を、大聖人の仰せどおり、わが道を自分らしく前進していただきたい。
 人生は、あせってはならない。あせった人は、かならず行き詰まる。人生の勝負は五年や十年で決まらない。一生で判断すべきである。いな、三世の生命という根源的な尺度からみなければ、ほんとうのことはわからないといっても過言ではなかろう。
 さまざまな境遇にあって、行き詰まることもあろうが、そのときに、もう一度、この次元から自分を見直して、自分自身の個性を薫発していく勇気をもたなくてはならない。
 最後に再度、ホイットマンの詩――「さあ、出発しよう! 悪戦苦闘をつき抜けて! 決められた決勝点は取り消すことができないのだ」との一節を読み上げて、本日の指導とさせていただく。

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