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日蓮大聖人・池田大作

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第16回全国県長会議 広布の名将たれ

1978.2.8 「広布第二章の指針」第12巻

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2  将は、善悪ともに人を見ぬく力がなくてはならない。そして、心のひろびろとした人であってもらいたい。全会員を思う慈悲心と、祈りがなくてはならない。人に軽蔑されたり、失望させたり、落胆させたりするような無責任者であってはならない。法友を守るために、色心ともに力をつけ、謀略に負けたり、甘言にのったりしてはならない。
3  幹部は、大木にたとえれば、幹の存在である。直立した大木の幹は、皆さん方の姿といってよい。幹には花は咲かない。葉も繁らない。実もつけない。しかし枝には青々とした葉、ならびに花、木の実が爛漫と咲き繁るであろう。これは、全会員が功徳と歓喜の人生と生活を謳歌している姿を意味している。
 幹部は、枝である会員に功徳と歓喜の人生、生活を湧現させていくことを楽しみとしていくのである。これこそ、わが学会の理想的な姿だと銘記していただきたい。
4  一人のために確信の指導を
 信心の指導は、一人の人間の幸、不幸、生死の問題を決定する力をもつ。ゆえに、透徹した信心指導、確信ある信心指導、その人に希望と勇気と納得を与えきっていける的確な指導をなしゆくのが、学会本来の”指導主義”の伝統であることを忘れてはならない。
 将は、みずからが約束を守ることだ。一度決めた会う日、会う時間等は、幹部という権威をかさに、かってに放棄するようなことは、断じてあってはならない。もっとも細かいことでありながら、もっとも重要なことは、あらゆる約束を守ることだ。もし多忙のため、変更せざるをえない場合は、かならず代わりの人にお願いすべきである。
 指導者が生きいきとしているときには、会員も生きいきとする。幹部に情熱がない場合には、人々には歓喜は湧かない。ゆえに、多数の人々のために、自分自身の人間革命がなされ、成長していくことを祈りに祈り、リズムある生活を心がけて、日々月々、偉大な指導者としての指導、指揮をお願いしたい。
5  身口意の三業で実践
 「身口意の三業」という言葉がある。この意義と解釈はいくつかあるが、勤行という実践のうえで、これをあてはめるならば、五座三座の勤行をする姿は「身業」である。しかし、まだこれだけでは形である。御本尊に、わが一念が大きく響き、感応する。ことき読経、唱題することが「口業」といってよい。
 しかし、もっとも大切なのは「意業」である。人法一箇の大御本尊に対し奉り、感謝の念を忘れないことである。そして、謗法の念慮を排して、人を憎んだり軽んじたりすることをさけ、ひたすら即身成仏のため、罪障消滅のため、広宣流布のために、一切を心の奥底から御本尊にご祈念申し上げていくことである。この「意業」がなければ、根本的な功徳の泉は湧かないといってよい。
 「行躰即信心」という言葉がある。信心、信心といっても「行躰」すなわち行動がないところに信心はありえないという意味である。
 勤行する、布教する、法友のための指導をする――いわゆる一切衆生をば、大御本尊の大慈悲に浴せしめるためへの現実の行動があって、はじめて真実の信心となる。信心の心堅固ならば、行動もまたそこに伴っていくものなのである。実践、行動がないところには、信心はないがゆえに、人間的成長も、人間革命もないのである。
 心して幹部は、組織のうえにアグラをかくことなく、大聖人の御指南の行躰即信心の広宣流布の名将であっていただきたい。
6  ある著名人がいっていた。「まさしく日本人は、島国根性である。人がよくなるとやっかむ、ねたむ、さらに足を引っ張る。まことに狭小な悪趣味の民族である」と。たしかにそのようだ。われわれも、過去も現在もそのようにされたこと枚挙にいとまがない。
 仏法にはそれらを「猶多怨嫉」という。「法華経の第四に云く「而も此経は如来の現在にすら猶怨嫉多しいわんや滅度の後をや」等云云」と説かれているとおりである。末法の衆生は、総じて、この怨嫉が多いが、とくに日本人にそれが強いことは、いまの著名人の指摘のとおりである。
 大聖人は「佐渡御書」のなかで「一闡提人と申て謗法の者計り地獄守に留られたりき彼等がうみひろ生広げて今の世の日本国の一切衆生となれるなり」と仰せになっておられる。このように、時代はますます乱世、暗黒になってきた。
 立正安国を目的とするわれらは、楽土日本の建設のため、あらゆる力を結集しながら、社会、人類のために貢献していきたいことを互いに確認しあって、本日の指導とさせていただきたい。

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