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日蓮大聖人・池田大作

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第二東京支部長会 広布と成仏のための指導者たれ

1978.1.30 「広布第二章の指針」第12巻

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1  教学試験について
 「教学の年」第二年を迎えて、いくつかの教学試験を行ってきた。各県や本部等で、有名な幹部が幾人も落ちていることも事実である。本来、行学ともにすぐれた人が幹部であるけれども、運悪くいちじ落ちたにすぎない。学会教学が厳正であることの証拠である。
 ただ、試験には落ちても、毎日毎夜、後輩の信行ならびに教学の指導に全力を傾注してきたことは、御本尊がすべて知っておられる。少しも嘆かず、多くの後輩を育成し、合格させたという誉れが無量の功徳であると確信していただきたい。
 合格した後輩も、先輩のおかげであることを自覚し、それらの先輩をさらに尊敬すべきである。これが、仏法であり、信心であり、学会である。試験に合格したからといって、成仏を約束されたわけではない。合格のみでは理である。大聖人の仏法は事である。
 日々月々に、広布のために実践した人が成仏につながることを忘れてはいけない。
2  「仏」と「魔」の作用と信仰者のあり方
 仏法は「仏」と「魔」との戦いといってよい。魔とは、正法を行ずることを妨げる働きである。さまざまな姿の魔があるが、それを見破るのも、冥伏させるのも、強き信心の力しかない。魔は強力に襲いかかってくる場合もあるし、もっとも身近なところにある場合もある。とくに、身近の場合には、親しみより信心がながされて、しだいに信心を破壊していくものである。
 ともかく、それらの魔に誘惑されないための防波堤は、五座三座の勤行といってよい。つぎに、信心の会合にかならず出席するということである。
 魔を魔と見破れば、もはや魔の働きはできなくなる。一般的にも悪人とか、詐欺師とかいうものが明確になった場合には、それらにたぶらかされないで警戒を厳重にして自己を守る。それらに負けないために最大の用心をするから、詐欺等ができなくなるのと同じである。
 それと同様に、仏法のうえで信・行・学を実践していくためには、仏法を破壊していく魔を魔と見破っていくことが大事になる。
3  たまに、根拠のないことまで推測されて、新聞記事等に報道されることがある。まことに迷惑である。しかし、乱世である現実社会のあり方を、聡明な皆さんはよくご賢察願いたい。
 ただし、これとは別に、広宣流布のためには、時代の進展とともに将来の布石のために、多角的な手を打たなければならない場合がある。あくまで広布のため、前途を開くために行動する場合もある。
 われわれの行動は、法戦である。勝つときもある。負けるときもある。進むときもある。退くこともあるかもしれない。時を待つべきときもある。ただし、大聖人の時代もそうであったごとく、いかなることがあっても、すべてが信心の深化のためと成仏のためであることをご了解願いたい。
 策略や陰謀をもって、破和合僧のはたらきをしてくるものもこれからも多々あるだろう。よくよく厳しく、信心の眼、すなわち法眼、仏眼で判断を願いたい。
 船舶が運航する場合、船長も必要である。機関士も必要である。水夫も必要である。操舵手も必要である。すべての人々のチームワークで船は目的地へ進み、到達するわけである。
 広宣流布の場合も、それ以上にすべての人が人材であり、その全員のチームワークによって、大願は成就されるといってよい。ゆえに学会の発展は、全員の功績とすべきである。
 ただし、信心利用ならびに自己の野心を満足するために存在する人もいることを、厳重に注意されたい。それは仲間であるようで、心は外道の人、謗法の人であるといってよい。
 いままでも、会員だからといってわれわれは迷惑をこうむったことがある。そのほとんどが信心もなく、なにかあると、自分は会員だといって自己防衛のために利用しているにすぎない。これからも、このようなことは多数のなかにはたまたまあると思うが、とくと心していただきたい。
4  幹部の基本姿勢
 令法久住といっても人で決まる。広宣流布といっても人で決まる。学会は、すでに多方面に人材を送り出してきた。とくにこの数年間は、人材の成長を私は待っていた。しかし、いまここに、北条理事長を中心軸として、副会長、県長、本部長、支部長、ならびに未来の一切を託す青年部の幹部の人材の陣列ができあがった。うれしいかぎりである。私は安心である。
 あとは、大聖人の弟子であり子供である会員に、一人も残らず指導の光をあて、それぞれの意義と使命をおびた人材として、総仕上げをしていただきたい。
 その支部の発展も、盛衰も、しょせんは支部長の信心、そして心音というリズムによって決定されるといってよい。ともかく、支部長をはじめ幹部は、人々から好かれなければならない。魅力がなくてはならない。誠実でなければ好かれないし、魅力もないだろう。誠実の一つは、人それぞれの長所を生かそうとする努力、もう一つは、約束を実行するということである。
5  学会はこれまで”一段とび指導”というものを行ってきた。これが、組織を発展させてきた一つの原則である。
 当然、全幹部は全会員の指導ならびに訪問指導、激励をするのが、すべてに優先して第一義の運動である。そのうえにたって、県・区・圏長は、支部長を守り育成する。本部長は、大B長にとくに焦点をあてる。支部長は、B長にとくに焦点をあて、力をそそいでいくべきである。大B長は、つねにブロック員に直結し、世話をし、面倒をみ、指導をお願いしたい。しかし、これはあくまで原則論であって、応用もある。臨機応変もあることは当然といってよい。
6  青年部の活動のあり方
 青年部は、青年部長、男女部長、なかんずく本部直結であるというのが、初代会長以来の伝統である。
 戸田前会長も「青年部は支部の青年部ではない。本部の源流に直結していかねば、青年は大なる成長がない。それは青年が未来をつくるからだ」とよくいわれていた。次代の広宣流布のために、青年部の指導、訓練は、本格的に本部としてなさねばならない。
 支部活動は、各部一体となってなされるべきことは当然である。ただし、男女青年部のあり方は、それのみではない。次代の人材育成のためにも、機動性を発揮するためにも、また広布を守り推進するためにも、あくまでも本部直結の原則を尊重されたい。
 ゆえに活動は、男女青年部の独自性を優先し、そのうえに立っての四者一体、四者協調であることをご承知願いたい。ともかく、その点を壮年、婦人の中心者もよく含んで賢明な包容の指揮をお願いしたい。
 男子部の幹部は、けっして特権意識をもってはならない。学会伝統の男子部には、工員がいる。労働者がいる。現実社会で、泥沼のなかで苦悩しながら、社会の真っただ中で戦っている人が多い。その意味で、男子部幹部は、身も心も本来の広宣流布の労働者として、その大切な各地域の同志と一体になって、体当たりの包容と激励と対話を繰り返すべきである。そこには、いささかたりとも断絶、断層めいたものをつくってはならない。
7  大聖人の本眷属の法戦を
 皆さんの組織のなかには、愚痴の人がいる。反感の人もいる。誠意が通じない人もいる。また、隣近所、一族からも相手にされないような人もいよう。しかし、みずからの時間も惜しまずに、仏法弘通の涙ぐましき労作業をしていることは、仏の使いにあらずんば、いな、大聖人の本眷属にあらずんばできぬ崇高な努力といってよい。
 その人々を、三世十方の仏菩薩が守護しないわけはないし、成仏しないわけもない。大聖人の使徒としての誉れ高き人生凱歌、すなわち因果倶時の連続の大福運が、元初の太陽に照らされながら輝きわたっていることを誇りとされたい。
 無名の庶民が大御本尊の御威徳のもとにこの人間復興の聖業を遂行してきた結果、日本一の宗門となり、学会となり、いま世界的な仏法興隆の時を迎えたのである。
 われわれは、だれから嘲笑され非難されようと、ただただ御本仏日蓮大聖人が見守ってくださることを確信されたい。仏法は一つもむだがない。すべてが未来の成仏と広宣流布につながっていくのである。生命一念の結実は、宇宙とともに永遠の生命のなかに、厳然として因果倶時に実在してゆくことを確信していただきたい。
 今後も、嘲笑され非難されるであろう。しかし、仏弟子の誉れも高く、三世の生命観に立ち、永遠にわたる勝利を確信して前進されんことを願うものである。迫害をうけずして大業を成就したものはいないからである。
 最後に、記念の一詩を、きょうお集まりの皆さん方にお贈りして、私の指導としたい。
 慈悲の剣 王者のつるぎ 師子奮迅

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